飛び降りる人
第一章 通勤路
東海地方に住んでいた頃の話だ。
その頃、私は毎朝、同じ道を通って会社へ向かっていた。
大きな川に沿って伸びた道路だった。
川幅は広く、雨が降った翌日には濁った水が音もなく流れているのが見えた。
朝の時間帯は車の量も多く、通勤する人や自転車もそれなりにいる。
特別な道ではない。
ただ、会社へ行くために毎日通っていた。
その川の近くに、大きなマンションのような建物があった。
何階建てだったのか。
今では、正確には思い出せない。
ただ、かなり高かったということだけは覚えている。
そして、その建物を見るようになってから、通勤が少し嫌になった。
最初に見たのは、いつものようにその前を通った朝だった。
ふと、建物の上のほうから何かが落ちてくるのが見えた。
最初は何か分からなかった。
ゴミ袋か。
何かの布か。
そう思っていた。
けれど、それが人間の形をしていることに気づいた。
人が落ちている。
そう認識した瞬間、身体が固まった。
高いところから、ひとりの人間が真っ直ぐ落ちてくる。
その姿が、妙にはっきり見えた。
そして。
ドンッ。
大きな音がした。
耳で聞いたというより、頭の奥に直接響いてきたような音だった。
私は反射的に目を逸らした。
怖かった。
何が起きたのか理解するよりも、その場から離れたいと思った。
けれど、信号待ちをしていたため、すぐには動けない。
しばらくして青信号になり、私はその場を離れた。
会社へ着いても、さっき見たものが頭から離れなかった。
あれは本当に人だったのか。
見間違いではなかったのか。
そればかり考えていた。
けれど、その時はまだ知らなかった。
同じものを、何度も見ることになるとは。
第二章 また落ちてくる
数日後。
私はまた、その道を通った。
できるだけ建物を見ないようにしていた。
けれど、何となく視線が上を向いた。
そして。
また落ちてきた。
人だった。
あの日と同じように、建物の上から落ちてくる。
服装も似ている。
身体つきも同じように見えた。
そして何より。
落ちながら、その人がこちらを見た。
目が合った。
ほんの一瞬だった。
それでも、はっきりと分かった。
こちらを見ている。
次の瞬間。
ドンッ。
また、あの音がした。
私はその場を離れた。
偶然だと思った。
疲れているのだろう。
寝不足なのかもしれない。
一度なら見間違いで済ませられる。
二度目だって、偶然ということにできる。
そう思った。
ところが、それは二度では終わらなかった。
その後も何度も見た。
マンションの前を通る。
上から人が落ちてくる。
目が合う。
そして、大きな音がする。
毎回、同じだった。
しかも、落ちてくる人はいつも同じだった。
服も。
髪型も。
身体の大きさも。
顔そのものを細かく覚えているわけではない。
それなのに、見れば分かる。
また、この人だ。
そう思う。
何度目だったかは覚えていない。
ある朝、私は落ちてくる姿を見た瞬間、目を閉じた。
見たくなかった。
もう慣れてしまったとはいえ、人間が高い場所から落ちてくる光景など、何度見ても気分のいいものではない。
目を閉じても、落ちてくる気配だけは分かった。
そして。
ドンッ。
音がした。
私は目を開けた。
道路には何もなかった。
人もいない。
血もない。
騒いでいる人もいない。
車が普通に走っている。
信号が変わる。
自転車が通り過ぎる。
いつもの朝だった。
ただ、耳の奥にだけ、あの音が残っていた。
第三章 目が合う
何度も同じことが続くと、人間は恐怖にも慣れてしまう。
最初の頃は、あの道を通るだけで緊張した。
建物を見ないようにしていた。
けれど、そのうちに、
「また見えるかもしれない」
くらいに思うようになった。
もちろん、現実に人が飛び降りているとは思っていなかった。
もし本当にそんなことが何度も起きているなら、大きな騒ぎになっているはずだ。
警察も来る。
救急車も来る。
道路も封鎖される。
ニュースになってもおかしくない。
けれど、そんなことは一度もなかった。
だから私は、それを幻覚のようなものだと思うことにした。
疲れている。
眠い。
仕事のことを考えすぎている。
そのせいで、ありもしないものが見えている。
そう考えれば、何とか納得できた。
ただ、ひとつだけ納得できないことがあった。
毎回、目が合うことだった。
落ちている人間が、こちらを見ている。
助けを求めるわけでもない。
泣いているわけでもない。
怒っているようにも見えない。
ただ、こちらを見る。
まるで、
「また見ている」
とでも言いたげに。
ある時、私はその人の顔をじっと見返してしまった。
落ちてくる。
どんどん近づいてくる。
目が合う。
その顔には、何の感情もなかった。
その瞬間。
口元が動いたように見えた。
何かを言ったようにも見えた。
けれど、声は聞こえなかった。
そして。
ドンッ。
私はすぐに目を逸らした。
それ以来、建物を見上げることはやめた。
第四章 違う人
そんな日々が続いた。
いつもの通勤路。
いつもの川。
いつもの建物。
そして、いつもの朝。
ある日。
私は何となく上を見てしまった。
人が落ちてきた。
反射的に、
「ああ、またあの人だ」
と思った。
しかし。
違った。
落ちてきた人は、今まで見ていた人とは別人だった。
服装が違う。
髪型も違う。
身体つきも違う。
そして、顔も違う。
なぜか、その日は顔がはっきり見えた。
無表情だった。
悲しんでいるわけでもない。
苦しんでいるようにも見えない。
後悔しているようにも見えなかった。
ただ、無表情。
何も感じていないような顔だった。
その人と目が合った。
その瞬間、背筋が冷たくなった。
今までの人とは違う。
そうはっきり思った。
そして。
ドンッ。
大きな音がした。
今まで何度も聞いてきた音。
けれど、その時だけは違った。
本当に目の前で何かが落ちたような音だった。
私は動けなかった。
足元を見る。
そこには、人が倒れていた。
血が飛び散っているわけではなかった。
ただ、人が倒れている。
その身体が、みるみるうちに赤黒く腫れていった。
皮膚の色が変わっていく。
顔も。
手も。
見る間に赤黒くなっていく。
私は、それをただ見ていた。
助けを呼ばなければ。
そう思った。
携帯を取り出そうとした。
その時、後ろから車のクラクションが鳴った。
私は驚いて振り返った。
ほんの一瞬だった。
そして、もう一度足元を見た。
何もなかった。
人もいない。
血もない。
最初から何もなかったように、道路が続いている。
私はしばらく動けなかった。
あれは何だったのか。
分からなかった。
第五章 現実
会社に着いてからも、私は落ち着かなかった。
仕事を始めてしばらくした頃、同僚たちが話している声が聞こえた。
「あそこ、今朝飛び降りがあったらしいよ」
私は顔を上げた。
「あそこって、川の近くの……?」
「ああ。大きなマンションのところ」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく鳴った。
やっぱり。
あれは現実だった。
そう思った。
今朝、確かに人が落ちてきた。
私は見た。
顔も見た。
落ちる瞬間も。
地面に落ちた音も。
その後、身体が赤黒く腫れていくところまで。
あれは現実だった。
少なくとも、今日の飛び降りは。
そう思った。
けれど。
同時に、別の疑問が浮かんだ。
それなら。
今まで私が何度も見てきた「あの人」は何だったのだろう。
今日落ちてきた人は、今まで見ていた人とは明らかに違った。
私はそれを知っている。
何度も見てきたからこそ、分かる。
今日の人は別人だった。
ならば。
今まで何度も落ちてきたあの人は。
いったい何だったのか。
第六章 最後に見たもの
それから私は、できるだけその道を通る時に建物を見ないようにした。
けれど、完全に避けることはできない。
川沿いの道路を走れば、どうしても視界の端に入る。
だから私は、なるべく前だけを見るようにした。
ある日の朝。
その建物の前を通り過ぎようとした時だった。
何となく。
本当に何となく、上を見た。
屋上付近に、人が立っていた。
距離があるので顔までは分からない。
けれど、なぜか分かった。
あの人だ。
何度も見た人。
何度も落ちてきた人。
その人が、こちらを見ている。
私は目を逸らした。
それで終わりにするつもりだった。
けれど。
その人の隣に、もう一人立っているのが見えた。
私は一瞬だけ、そちらを見た。
今朝、落ちてきた人だった。
無表情な顔。
赤黒く腫れていった身体。
現実に飛び降りたはずの人。
その二人が、屋上に並んで立っていた。
私は慌てて目を逸らした。
もう一度見ることはできなかった。
その後、振り返ることもしなかった。
あれから長い時間が経った。
今でも、あれが何だったのかは分からない。
最初に何度も見ていた人。
同じ場所から何度も落ちてきた人。
何度も私と目が合った人。
あの人は、現実の人間だったのか。
それとも、そこで死んだ誰かだったのか。
あるいは。
私が見てはいけないものを、ただ見てしまっていただけなのか。
答えは出ない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
あの日、会社で聞いた「飛び降りがあった」という話。
それは嘘ではなかった。
実際に、あの場所で人が飛び降りていた。
だからこそ、余計に怖い。
あれが現実だったと分かったことで。
それまで見ていたものまで、現実だった可能性が生まれてしまったからだ。
もし最初から、すべてが幻覚だったのなら。
私はそう思って忘れることができた。
けれど、現実にひとりが飛び降りた。
その人を、私は確かに見た。
そして、その人とは別に。
私は何度も、同じ人が飛び降りるところを見ていた。
何度も。
何度も。
何度も。
今でも時々、あの川沿いの道を思い出す。
すると、耳の奥で音がする。
遠くから聞こえてくるような、小さな音。
それが少しずつ大きくなっていく。
そして最後には。
あの朝と同じ音になる。
ドンッ。
その音を聞くたびに、私は思う。
あの人は、本当に飛び降りていたのだろうか。
それとも。
私が通るたびに、何度でも飛び降りていたのだろうか。
私に見られるために。
私が見ていることを知っていたから。
そして、もし今でもあの場所を通ったなら。
また、あの人は落ちてくるのだろうか。
私と目を合わせながら。
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