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病院の夜

第一章 入院


小学生の頃、私は一週間以上、高熱を出していた。


熱は四十度近くまで上がり、下がらなかった。


その間のことを、私はほとんど覚えていない。


何かを見ていたような気もする。


誰かと話していたような気もする。


部屋の中に知らない人がいたような気もする。


けれど、それが夢だったのか、現実だったのか、それとも高熱による幻覚だったのかは分からない。


家族から聞かされた話では、意識も朦朧としていて、時々おかしなことを言っていたらしい。


脱水症状も起こしていて、検査では脳波にも異常があった。


それで入院することになった。


私がはっきりとした意識を取り戻した時には、病院のベッドの上だった。


白い天井。


白いカーテン。


消毒液のような匂い。


腕には点滴が繋がっていた。


「入院して、もう二日目よ」


そう教えられた。


自分では、病院に運ばれたことすら覚えていなかった。


その病院は、九州にある病院だった。


今では建物も改装されているらしいが、当時の病室には扉がなかった。


四人部屋だったが、ちょうどお盆の時期だった。


同室の人たちは皆、家族のもとへ帰省していた。


そのため、その病室には私一人しかいなかった。


四人部屋なのに、一人。


子供だった私は、それを少し得したように感じていた。


広い病室を一人で使える。


テレビもゲームも好きにできる。


昼間は見舞いに来る家族や看護師がいて、それほど寂しくもなかった。


けれど、夜になると印象が変わった。


病院の夜は、静かではなかった。


遠くから、誰かの唸るような声が聞こえる。


廊下の向こうでナースコールが鳴る。


何かの機械が、一定の間隔で音を立てる。


誰かが歩いている。


時々、看護師同士が小さな声で話している。


それらが暗い廊下の向こうから、途切れ途切れに聞こえてくる。


怖いというより、不思議だった。


昼間とはまるで別の場所にいるような気がした。


そして、その夜から私は、病院の夜に少しだけ詳しくなった。


看護師の足音が分かるようになったのだ。


「ペタン……ペタン……」


スリッパのかかとが床を叩く音。


それが廊下の奥から聞こえてくる。


看護師が巡回してくるのだ。


私は夜中にゲームをしていることが多かった。


もちろん、見つかると怒られる。


だから、


「もう寝なさいよ」


と言われるたびに、


「はーい」


と返事をして、慌ててゲームを隠した。


そして看護師の足音が病室の前を通り過ぎたら、またゲームを始める。


それを何度か繰り返していた。


足音が聞こえたら寝る。


通り過ぎたら起きる。


当時の私にとっては、それが病院の夜の日課になっていた。



第二章 お盆


入院して何日目だったかは覚えていない。


ただ、お盆の最終日だったことだけは覚えている。


その日は朝から天気が悪かった。


夕方になるにつれて雨はどんどん強くなり、夜には窓を激しく叩くようになっていた。


風も強かった。


「ドン、ドン、ドン」


窓ガラスが揺れる。


病室のカーテンが、風の入り込んだわけでもないのに僅かに揺れていた。


外は真っ暗だった。


街灯の明かりが雨で滲んでいる。


その夜も私はゲームをしていた。


病室には私一人。


看護師が来なければ、誰にも怒られない。


そう思っていた。


ゲーム機の小さな画面を眺めていると、ふいに声がした。


「早く寝なさいよ」


私はびくっとした。


看護師だった。


いつの間に来たのか分からなかった。


いつもなら、その前に必ず聞こえる。


「ペタン……ペタン……」


というスリッパの音が。


けれど、その日は雨と風が凄まじかった。


窓を叩く雨音に、廊下の音など完全に消されていたのだと思った。


「はーい」


私は返事をして、ゲーム機を置いた。


布団をかぶる。


看護師が通り過ぎるまで寝たふりをする。


いつものことだった。


しばらくして、気配が遠ざかった。


私はそっと布団から顔を出した。


誰もいない。


廊下も暗い。


「もう行ったんだ」


そう思って、またゲームを始めた。


しばらくすると、また声がした。


「早く寝なさい」


私は画面から顔を上げた。


まただ。


今度も足音は聞こえなかった。


雨があまりにも激しいせいだろう。


そう思った。


「ごめんなさーい」


私は笑いながら返事をした。


そして、また布団をかぶった。


看護師が通り過ぎるのを待つ。


やがて、気配が消えた。


私は布団から出た。


ゲーム機に手を伸ばす。


その時だった。


廊下から、何かの気配を感じた。



第三章 廊下


病室には扉がなかった。


だから、廊下がそのまま見えていた。


私は何気なく廊下へ目を向けた。


最初は、誰もいないと思った。


暗い廊下。


その向こうで、雨音だけが響いている。


病室の照明が廊下の床を薄く照らしている。


そこに――


誰かがいた。


首だけが、こちらを向いていた。


身体は廊下の向こうを向いている。


なのに、首だけが不自然な角度でこちらを向いている。


私は固まった。


それが誰なのか分からない。


けれど、看護師なのだと思った。


白い服。


見慣れた姿。


だから、すぐに安心しようとした。


けれど。


何かがおかしい。


その人は動かなかった。


ただ、こちらを見ている。


そして口元だけが、ゆっくり動いた。


口の端が、クイッと上がった。


笑ったように見えた。


そして言った。


「気付いているからな」


その声を聞いた瞬間、全身が凍った。


聞き覚えのある声だった。


さっきまで何度も聞いていた声。


「早く寝なさい」


そう言っていた声と、まったく同じだった。


私は声を出せなかった。


看護師ではない。


そう思った。


でも、何が違うのか説明できない。


ただ、そこにいるものを見てはいけない。


そう思った。


私は布団の中に潜り込んだ。


頭まで完全に布団をかぶる。


身体が震えていた。


歯が鳴りそうだった。


目を閉じる。


耳を塞ぐ。


それでも、外の雨音は聞こえていた。


ザーッ、ザーッ、と窓を叩く音。


風が吹くたび、窓ガラスが震える。


私は布団の中で、必死に朝が来るのを待った。


その時だった。


布団のすぐ上から声がした。


「騙せると思わないで」


私は息を止めた。


布団の上に、何かがいる。


そんな感覚がした。


布団越しに、何かが私を見下ろしている。


私は目を閉じたまま、ただ震えていた。


もうゲームのことなど、どうでもよかった。


看護師に怒られることも。


退院のことも。


家に帰ることも。


何も考えられなかった。


ただ、ここから消えてほしい。


それだけを考えていた。



第四章 朝


次に気が付いた時、朝だった。


病室には朝の光が差し込んでいた。


雨は止んでいた。


何事もなかったように、病院の一日が始まっていた。


看護師が来た。


体温を測る。


点滴を確認する。


いつもの朝だった。


昨夜のことを話そうと思った。


でも、怖くて言えなかった。


自分でも、夢だったのではないかと思った。


高熱を出していた。


脳波にも異常があった。


入院する前には幻覚も見ていたらしい。


だったら、昨夜のことも幻覚だったのかもしれない。


そう考えると、少しだけ安心できた。


その日の昼。


親が見舞いに来た。


私は昨夜のことを話した。


「夜中に看護師さんが来て……」


そこまで話したところで、親の顔が変わった。


「何時頃?」


「分からない。でも、二回くらい寝なさいって言われた」


「それ、本当に看護師さんだった?」


私は答えられなかった。


首だけがこちらを向いていたこと。


口の端を上げて笑ったこと。


そして、


――気付いているからな。


――騙せると思わないで。


そう言われたこと。


全部話した。


親は何も言わなかった。


ただ、しばらく私の顔を見ていた。


そして、その日のうちに退院の話をしてくれた。


私は、もう帰れるのだと思った。


ところが。


退院は三日延びた。



第五章 三日間


なぜ三日延びたのか。


体調が完全には戻っていなかったからなのか。


検査のためだったのか。


子供だった私には、詳しいことは分からない。


ただ、親からは、


「もう夜にゲームなんかしないで、ちゃんと寝なさい」


と何度も言われた。


それからの三日間。


私は夜になると、すぐに寝た。


ゲームもしなかった。


廊下を見ないようにした。


足音を聞いても、起きなかった。


「ペタン……ペタン……」


スリッパの音が病室の前を通っても、布団から出なかった。


「早く寝なさい」


そう言われることもなかった。


ただ一度だけ。


夜中に目が覚めたことがある。


病室の外から、何かが聞こえた。


雨の音ではない。


遠くで誰かが歩いている。


「ペタン……ペタン……」


看護師の足音だった。


私は目を閉じた。


そのまま、じっとしていた。


足音は病室へ近づいてくる。


ペタン。


ペタン。


ペタン。


そして、病室の前で止まった。


私は息を殺した。


怖かった。


でも、見なかった。


絶対に見てはいけない。


そう思っていた。


しばらくして、足音が遠ざかっていった。


ペタン。


ペタン。


ペタン。


廊下の向こうへ消えていく。


私はようやく息を吐いた。


そして、そのまま朝まで目を閉じていた。


終章 あの声


退院してから、何年も経った。


あの病院には、もう行っていない。


建物がどうなったのかも知らない。


あの夜のことも、長い間、自分の中では「高熱のせいで見た幻覚」だと思っていた。


実際、それが一番自然なのだと思う。


私は入院する前から高熱で意識が朦朧としていた。


幻覚も見ていたらしい。


脳波にも異常があった。


だから、あの夜の出来事だって、夢だったのかもしれない。


そう考えれば、何もおかしくない。


ただ、一つだけ。


今でも納得できないことがある。


あの夜。


二度目に、


「早く寝なさい」


と言われた時。


私は確かに、その声を聞いた。


そして、その直後に廊下を見た。


そこには、首だけをこちらへ向けた何かがいた。


その声は、さっきまで私に注意していた看護師の声と同じだった。


だから、私は今でも思う。


あれは本当に看護師だったのだろうか。


もし看護師だったのなら、なぜ足音が聞こえなかったのか。


そして、なぜ最後にあんなことを言ったのか。


もっと怖いのは、別の可能性だ。


もし、あれが看護師ではなかったのなら。


あの夜、私に何度も、


「早く寝なさい」


と言っていたのは、一体誰だったのだろう。


そして――


私がそれを「看護師の声」だと思い込んでいたのは、なぜだったのだろう。


今でも雨の強い夜に、ふと病院を思い出すことがある。


窓を叩く雨。


遠くで鳴るナースコール。


暗い廊下。


そして、


「ペタン……ペタン……」


というスリッパの音。


あの音を思い出すたび、私はあの夜、布団の中で聞いた最後の言葉を思い出す。


――騙せると思わないで。


あれが私に向けられた言葉だったのか。


それとも。


私が誰かを騙そうとしていることを、見抜かれた言葉だったのか。


今となっては、もう分からない。



※この本書は実体験や夢を元に脚色を加えたフィクションです。登場する人物や団体名は架空のものです。

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