「本人が気づくまで待つ」だけでいい?
支援をしていると
本人より先に何かが見えることがあります。
最近、少し手が止まることが増えた。
前より話す量が減っている。
このまま進むと、あとで困るかもしれない。
でも本人は
特に困っていないと言っている。
こういうとき
「本人が自分で気づくことが大事だから待とう」
と考えることがあります。
本人主体を大切にしたいなら
自然な考えでもあると思います。
ただ最近
待つだけでいいんだろうか?
とも思います。
● 先に見えたものを答えにしない
支援者に見えているからといって
それが正しいとは限りません。
「本人はまだ気づいていない」
「本当は困っているはず」
そう決めてしまえば
本人からどう見えているかを聞く前に話が終わります。
支援者の見立てを
本人の答えにするのは違う。
ここは私も気をつけたいところです。
でも
支援者が見えていることを何も伝えずに待つと
本人には考える材料そのものが渡らないこともあります。
自分の変化は、自分だけでは見えにくい。
私も、外から言われて初めて
「そんなふうに見えていたんだ」
と気づいたことがあります。
● 「気づかせる」と「見えていることを渡す」
本人に気づいてもらおうとすると
支援者が用意した答えへ連れていく
そんな関わりになりやすい気がします。
質問しているようで
実は「ここに気づいてほしい」が決まっている。
本人が別の答えを出すと、また質問する。
……それ、本人が気づくまで待っているというより
支援者の正解が出るまで待っているだけかもしれません。
私がしたいのは、もう少し違います。
「最近、前より手が止まることが
増えたように見えています。自分ではどうですか」
支援者から見えた事実や見立てを、見立てのまま渡す。
本人が「確かに」と言うかもしれないし
「いや、そこは困っていません」と言うかもしれない。
訂正されたら、そこから見直せばいい。
● 待つ時間に、何をしているか
本人が自分で気づくには
時間がかかることがあります。
考える材料が増えて、経験を振り返って
やっと言葉になることもある。
だから急がせないことは必要です。
でも、待つという言葉で支援者が
何もしなくなるのは違うと思っています。
本人が今どこまで見えているのかを聞く
支援者から見えている変化を伝える
一緒に試せる場をつくる
あとで何が起きたか振り返る
答えを代わりに決めずに
気づくための材料や機会をつくることはできます。
● 本人主体は、ひとりにすることではない
最後に決めるのは本人です。
でも、自分だけで全部に気づき、全部を整理し
全部を決めることまで本人主体に含めてしまうと
かなり孤独ですよね。
支援者だから先に見えることもある。
その視点を隠すのでも、正解として渡すのでもなく
本人が考える材料として同じ机に置いてみる。
待つことが必要な場面はあります。
ただ私は「待っています」と言いながら
その人が一人で答えにたどり着くのを
見ているだけにはしたくない。
本人が気づくまでの時間に、何を一緒にできるのか。
今はそこまで含めて、待つということを考えています。
● 気づいていないのか、まだ言葉になっていないのか
本人が「困っていません」と言ったとき
本当に困っていない場合もあります。
支援者が気にしすぎているだけかもしれません。
一方で、変化には気づいていても
それが困りごとだとは思っていないこともある。
何となく違和感はあっても
まだ説明できないこともあります。
同じ「困っていません」でも
中で起きていることは違います。
だから私は、本人の言葉を否定せずに
支援者から見えた事実だけを置いてみたい。
「前より手が止まる時間が増えたように見えました」
「最近、この場面のあとに疲れたと言うことが続いています」
それをどう捉えるかは、本人と確かめる。
支援者の気づきを正解にせず
本人が考える材料にもできる。
その渡し方を探すことも
待つ間にできる支援だと思っています。
待つか伝えるかを一度で決めるのではなく
本人の反応を見ながら渡す量を変える。
私は、その往復まで含めて本人主体の支援だと考えています。
何もしないで待つのか
考える材料を渡しながら待つのか
同じ「待つ」でも中でしている支援は違う
と、私はおもっています☺️
