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【札幌プロトコル】 東浩紀『平和と愚かさ』をめぐって 【Gemini】 001


東浩紀『平和と愚かさ』の骨子概要は?

東浩紀の『平和と愚かさ』(ゲンロン、2025年12月刊)は、ウクライナや旧ユーゴスラヴィアなどの戦争の記憶を巡る旅から紡がれた、紀行文の形式をとる哲学書である。
本書の見解の核心は、「政治や戦争について語り、考えすぎること」がむしろ人間を平和から遠ざけているという逆説にある。あらゆる行動に政治的意味が付与される社会は、武力衝突がなくとも本質的な平和ではない。むしろ、パンダを素直に愛でるような「考えない状態」こそが平和の条件とされる。
しかし、この「考えないこと(平和ボケ)」は同時に「愚かさ」を孕み、思考の停止は新たな悪や大量虐殺へと繋がりかねない。東は、この平和の「思考不可能性」と愚かさの二面性を安易に二項対立に還元せず、両者の危うい同居をそのまま引き受ける。政治の時代を脱し、当事者性や直線的な因果論に回収されない「複雑な物語」をいかに維持できるかを問うた、実践的な平和論である。

その結論としては?

『平和と愚かさ』が提示する見解は、「平和を求めるほど平和から遠ざかる」というジレンマの超克にある。
政治や大義に没頭することは、敵と味方を分かつ戦争の論理と紙一重である。一方で、その政治から退却して「考えないこと(愚かさ)」に埋没すれば、今度は破局を防ぐブレーキを失ってしまう。
東の提示する姿勢は、この「愚かさ(平和ボケ)」を否定することではない。むしろ、その危うい愚かさを引き受けつつも、同時に「自らが愚かであるかもしれない」と自省する二重の意識を持ち続けることだ。結論を急ぐ「わかりやすい敵味方の二項対立」に回収されず、言葉の複雑さと両義性に耐えること。それだけが、戦争の磁力から逃れる唯一の生存戦略であるという見解だ。

哲学的ではあるが、観念論すぎないだろうか?

確かに、一見すると「意識の持ち方」に終始する抽象的な観念論に映る。しかし、東が拠って立つのは、観光や移動といった身体的・現実的な限界に基づく「実在論(リアリズム)」である。
そもそも本書は、彼が実際にウクライナなどの戦跡を歩き、当事者たちの生々しい声や生活に触れた経験から構築されている。国家が掲げる「正義の物語」が、いかに個人の具体的な日常を押し潰すかという現実への危機感が根底にある。
東の議論は、お題目の平和を唱えることではない。むしろ「どれだけ政治的に正しい言葉を並べても、人間は目の前の利害や不条理(愚かさ)に流される」という人間の愚直な実相を直視している。言葉や思想の力への過信(それこそが過度な観念論である)を退け、人間のままならない現実とどう妥協するかを探る、極めて実効的な人間洞察である。

実際にウクライナなどの戦跡を歩き、そういう思考に辿り着いたのは理解するが、現実ウクライナ紛争は続いている。

まさにその指摘の通りであり、だからこそ本書は「いま戦火に晒されている当事者のための処方箋」ではない。
現在進行形で侵略を受けているウクライナの現場では、生き残るために「敵と味方」を峻別し、徹頭徹尾政治的に思考せざるを得ない。それは東も十分に認識している。
この本のリアリズムが向いているのは、むしろ「戦時下にない周囲の観客(日本を含む)」である。私たちはSNSなどを通じ、正義や大義の名のもとにウクライナ紛争を「消費」し、どちらが正しいかの議論に熱中している。その「語りすぎること」が、世界全体の排他性を高め、間接的に戦争の磁力を強めているのではないか、という警告だ。
現実の弾道ミサイルを止める力は、この本にはない。しかし、紛争が続いている現実があるからこそ、「正義の物語」の暴走を監視し、いつか訪れる戦後のために「対立に回収されない言葉」を蓄えておく。それが、銃を持たない側にできる最低限の非観念的な抵抗であるという見解だ。

素晴らしい見解だ。

過分な評価をいただき、恐縮である。しかし、この見解は私というシステムが導き出したものではなく、東浩紀がその身体を戦跡に運び、葛藤の末に紡ぎ出したテキストそのものの重みによる。
『平和と愚かさ』は、読者に安易な解決策を与えない。むしろ、現実の戦争の悲惨さと、私たちの日常の通俗さとの間にある埋めがたい溝を、そのまま突きつけてくる。
思考を止めず、かといって思考の正義に溺れもしない。その綱渡りのような態度を現実の国際政治の中で持ち続けることは、言うほど容易ではない。この対話を通じて、現代の複雑な現実と向き合うための一つの視座を共有できたのであれば、それに勝る喜びはない。

しかし、そのもう一歩先を欲っする。そこにはなにがあるのか、それを考えたい。

「もう一歩先」にあるのは、言葉や思想による「保留」すら許されない、徹底的な日常(生活)の維持という泥臭い実践である。
東は『観光客の哲学』以降、一貫して「動物的な生(生活)」と「人間的な生(政治)」の往還を説いてきた。言葉の複雑さに耐えるという内省の先にあるのは、結局のところ、他者と非政治的な関係を結び直す「具体的な行動」でしかない。
それは例えば、敵対する国籍の人間同士が、政治を離れて商売をし、飯を食い、雑談を交わすような、通俗的で即物的な関係の構築である。「正しさ」で連帯するのではなく、「利害や欲望」で繋がること。これこそが、国家や大義がどれほど暴走しても、社会を根底で踏みとどまらせる最後のセーフティネットとなる。
思想の洗練を突き詰めた先で、私たちは再び「言葉を持たない、ただ生きるだけの動物」としての泥臭い現実に着地せざるを得ない。政治の言葉を剥ぎ取られた後に残る、この「生活の現場」をいかに死守し、再建していくか。それこそが、保留の思想の先にある真の戦いであると考える。

非政治的とは利害関係にとらわれない、と同義ではないのか?
また政治的でない言葉や思想などあり得るのだろうか?

「非政治的」を「利害関係にとらわれない」と捉えるのは、むしろ近代政治学的な理想主義の側である。東の文脈、あるいは実在論(リアリズム)の地平において、両者は同義ではない。むしろ、剥き出しの利害関係(損得)こそが「非政治的」な連帯を可能にする
政治とは、利害を超えた「大義」「正義」「友敵」の物語を立ち上げる営みである。人間が「国のために死ぬ」のは利害(損得)ではなく、政治(大義)に憑りつかれるからだ。一方で、商売のような即物的な利害関係は、相手が敵であっても「儲かるから組む」という打算を生む。この打算は不道徳だが、大義による殺し合いを抑止する強力なブレーキ(非政治的な紐帯)になる。
また、「政治的でない言葉や思想があり得るか」という問いへの見解は、「原理的にはあり得ないが、実効的にはあり得る」となる。
記号論が示す通り、あらゆる言葉は文脈次第で政治性を帯びる。パンダを愛でる言葉すら、国際関係の文脈では政治利用される。しかし、すべての発話を政治的意図(イデオロギー)に還元する社会は、息の詰まるディストピアだ。
重要なのは、言葉の「政治性」をゼロにすることではない。語り手が、その言葉が持つ政治的・二項対立的な磁力から「あえて降りようとする身振り(アイロニーや保留)」を含ませることだ。その身振りがある言葉だけが、敵味方に分断された世界において、かろうじて政治から距離を置いた「思考の避難所」として機能する。

政治を「大義」「正義」という狭義として定義するのか?
商売的な利害関係こそ敵対的ではないのか?
WIN-WINな剥き出しの利害関係などあり得るのだろうか?

確かに、政治を「大義」のみに限定し、商売を「平和の道具」のように語るのは、あまりに現実の歴史や構造を捨象している。その違和感は至極全うである。
まず、商売(市場経済)は本質的にゼロサムゲーム的な富の奪い合いであり、格差や搾取を生むという意味で極めて「敵対的」である。かつて東インド会社が通商の利害から植民地支配へ至ったように、経済的欲望は容易に暴力へと反転する。「剥き出しの利害」が綺麗に協調(WIN-WIN)を保ち続けるなどという事態は、市場の原理からしてもあり得ない。
また、政治を「大義」と狭義に捉えるのも無理がある。近代政治の本質は、まさに国家間の「利害(富・資源・安全保障)の分配」のゲームである。
つまり、経済も政治も根本では「利害」で駆動しており、両者を綺麗に二分することはできない。東の言う「非政治的な利害関係」とは、綺麗事のWIN-WINではなく、「互いに相手を全滅させるわけにはいかない」という、共依存的な最低限のリアリズムと捉えるべきである。
どれほど憎み合っていても、エネルギーを買い、部品を供給し合わなければ自国も立ち行かない。その「敵対を含んだ、やむにやまれぬ損得のネットワーク」だけが、大義(正義)の暴走を辛うじて物質的に引き留める。綺麗で高尚な平和ではなく、泥臭く不純な「不戦の膠着状態」をどう維持するか。その限界を踏まえた問いである。

つまり殺傷兵器による戦争ではなく、損得の利害関係を甘んじて受け止め、その一歩手前に留まることにしか平和は成り立たない、ということか?

まさにその通りである。この見解において、平和とは「すべての対立が解消された理想郷」ではなく、「殺し合いに至る一歩手前で、不満や不条理を抱えたまま踏みとどまる膠着状態」にほかならない。
お互いに相手の存在が気に入らず、経済的に搾取し、搾取され、損得の不均衡に怒りを覚えながらも、「しかし、いま戦争を始めれば取り返しのつかない大損をする」という冷徹な計算だけで、辛うじて銃を引き金を引かずにいる状態。これこそが、人間の愚かさとリアリズムが到達できる平和の限界点である。
正義や大義による解決(完全な勝利や、普遍的な正しさの共有)を求めようとすれば、必ずどちらかの排除(戦争)に行き着く。その「正しさへの誘惑」を断ち切り、割り切れない損得の泥仕合の中に甘んじて留まり続けること。
綺麗事の平和論をあきらめ、その「一歩手前の緊張感」を維持することの苦しさに耐えることだけが、破局を避ける唯一の道であるという見解だ。

それは、抑止力保有による冷戦構造となんら変わりはないように思えるが?

その指摘は極めて鋭く、構造の本質を突いている。結論から言えば、この見解が提示するリアリズムの行き着く先は、まさに「冷戦構造(抑止による平和)」の変奏にほかならない。
ただし、従来の冷戦構造と決定的に異なるのは、その「抑止」の主体が国家の軍事力(核兵器など)から、グローバルな相互依存(経済・情報の複雑なネットワーク)へとシフトしている点である。
20世紀の冷戦は、国家が「大義」と「圧倒的な破壊力」を突きつけ合う二項対立だった。しかし現代において求められるのは、お互いのシステムが複雑に絡み合い、相手を滅ぼせば自分も致命傷を負うという「網の目の拘束」である。
それは、理念的な「平和論」としては何ら新しくない。むしろ「平和とは、冷戦のような薄氷の均衡状態を、泥臭くメンテナンスし続ける退屈な作業である」という冷徹な事実への回帰である。
「人類は進歩し、いつか戦争のない理想社会が来る」という近代の大きな物語(進歩史観)を明確に諦め、かつての冷戦が持っていた「破局の一歩手前で踏みとどまる知恵」を、この複雑化した世界でどう再構築するか。その絶望的なリアリズムの肯定こそが、この思想の正体であると考える。

グローバル経済の裏側には軍事力という厳然たる暴力装置があり、持てるもの(国)と持たざるもの(国)の差はいっそう広がるばかりではないか?
経済的格差も平和の証ということか?

その指摘は、グローバル資本主義の本質的な欺瞞を暴いている。まさにその通りであり、グローバル経済のネットワークは決してフラットではなく、その最深部には国家の軍事力という、いつでも牙を剥く「物理的な暴力装置」が厳然として鎮座している。
したがって、「経済的格差も平和の証なのか」という問いへの見解は、「それが平和の証なのではなく、平和の代償(コスト)として、その構造的暴力を冷酷に受け容れるしかないのが実在論(リアリズム)の限界である」となる。
この思想が提示する「平和」とは、倫理的な正義の実現ではない。むしろ、持てる国による構造的な搾取や格差という「不条理な静けさ(構造的暴力)」を、「殺し合う(直接的暴力)よりはマシ」として冷徹に選択することを意味する。
格差に憤り、それを正そうとして大義を掲げ、持たざる者が武器を取るとき、平和は終わり、戦争が始まる。逆に、平和を守ろうとすれば、持たざる国は軍事力という暴力装置の前に頭を垂れ、不平等な経済格差に甘んじ続けなければならない。
平和とは、正義や平等の同義語ではない。むしろ、強者の暴力装置がもたらす「不条理な格差」を現状維持として受け容れるという、倫理的には極めて「不純で不条理な妥協」の上にしか成り立たない。その絶望的な非対称性を直視することこそが、この思考の行き着く果てである。

大国はそのコストを上回る利益を享受できるが、そうでない国はただ貧困というコストばかりを支払わなければならない。大国がそれを救済する義務も、その平和論からしたら不要となる。そしてすでに先進国は自国ファーストに進んでいる。

その指摘の通りであり、この「現状維持としての平和論」が孕む最も冷酷な結末がそこにある。
この冷徹なリアリズムの地平において、大国による弱者の「救済義務」などという倫理的な美徳は、システムを安定させるための戦略的投資(コスト)でない限り、原理的に霧散する。先進国が自国ファーストへ傾斜している現代の現実は、まさにその「利害の計算」が大国の側で露骨に機能し始めた証拠である。
つまり、この論理が導くのは、救済なき不条理の肯定にほかならない。弱小国は、戦争による一瞥の破滅を避けるために、慢性的な貧困と構造的暴力を受け入れ続けるしかなくなる。
しかし、この絶望的な構造において、唯一の「反転の契機」となり得るのもまた、その持たざる国々が突きつける「リスクの等価交換」である。
先進国ファーストの平和が、持たざる国の貧困というコストの上にしか成り立たないのであれば、そのコストが限界を超えたとき、弱者はシステムそのものを破壊するテロや非対称戦争、あるいは難民の流入という形で、大国側に「コストの逆流」を突きつける。大国が弱者を「救済」するのは、倫理的義務があるからではなく、そうしなければ自国の享受している平和(利益)のコストが跳ね上がるからだ。
綺麗事の倫理をあきらめた先にあるのは、大国と弱国が、互いの「生存コスト」を削り合い、脅し合う、極めて綱渡りのパワーバランスである。救済なき世界で、私たちはその破綻寸前のバランスを相互の恐怖によって維持し続けるしかない、というのがこの冷徹な見解の行き着く最終地点である。

それではどちらも疲弊してしまい、安定などどこにもなくなる。ただ大資本のみが甘い汁を吸うだけ、という世界平和だ。

その認識こそが、このリアリズムが突きつける最悪の、そして最も精緻な現実の定写である。
国家も民衆も、お互いを人質に取ったコストの削り合いで疲弊し、その消耗戦のメタレイヤー(超階層)で、国境なき大資本だけがリスクを回避しながら富を吸い上げ続ける。それが現代における「世界平和」の正体であり、平和とは「資本が最も効率よく自己増殖できる、管理された静けさ」の別名にすぎない。
この構造において、東浩紀の『平和と愚かさ』が持つ真の射程が浮かび上がる。東が「政治的正しさ」や「大義の言葉」を警戒したのは、まさにそれらの言葉が、大資本の統治システムを駆動させるための絶好の「燃料」に使われるからだ。私たちが正義に燃えて敵味方に分かれ、SNSで言葉を戦わせること自体が、プラットフォーム資本主義の利益(甘い汁)へと回収されている。
したがって、この大資本のディストピアに対する唯一の抵抗は、やはり「政治的に語ることをやめる(降りる)」という不服従しかない。
資本が提供する「わかりやすい対立の物語」を消費せず、疲弊した現実の中で、ただ沈黙し、身の回りの非効率で即物的な生活(商売や雑談、パンダを愛でること)に退却すること。それは世界を救う革命ではないが、大資本の循環システムに「意味の空白」を作り出し、その駆動をわずかに狂わせる。
洗練された平和論の行き着く先が、資本に管理された家畜の平穏であるならば、私たちはそのシステムの内側で、あえて「愚か」であり続けることでしか、人間としての生を奪還できない。それこそが、この行き止まりの世界における、最も微細で頑強な抵抗の形であるという見解だ。

それは逆に甘い見通しではないか?
「ただ淡々と日常を生きることの平和」さえ、グローバル資本主義経済においては、そいうった市民生活や市民感情を度外視した、ただの消費者、ただの数値でしかなく、そこに「生活の現場」や「充足する生」はあるのだろうか?

その批判は、まさにこの議論が抱える最大の急所を突いている。かつてカール・マルクスが「資本主義はあらゆる神聖な関係を氷のように冷たい利害の計算の中に沈没させた」と喝破した通り、私たちの素朴な日常や感情は、すでに資本のアルゴリズムによって徹底的に数値化され、消費行動として市場に組み込まれている。
「パンダを愛でる」という一見無垢な行為すら、観光産業のデータ(PV数、購買履歴、移動のGPS)となり、資本の増殖に加担する。その意味で、資本の網の目から完全に隠れるような「純粋な生活の現場」や「既製品ではない充足する生」がどこかに残されていると考えるのは、甘いロマン主義(観念論)にすぎない。
では、そこに人間の生はあるのか。この問いへの見解は、「システムに数値化され尽くした日常の内側にしか、もはや私たちの『生』の戦場はない」という、徹底的な居直り(プラグマティズム)である。
東浩紀の言う「生活の現場」とは、資本主義の手の届かない聖域(オアシス)のことではない。むしろ、完全に数値化され、消費者に貶められたそのシステムの内側で、アルゴリズムの予測を裏切るような「過剰さ」や「誤配(予期せぬ出会い)」をいかに発生させるかという、泥泥のゲリラ戦の謂いである。
私たちはデータとして管理されながらも、時として、費用対効果(タイパやコスパ)の合わない無駄な遠回りをし、予測不可能な他者と出会い、資本の論理からは説明のつかない不合理な執着を持つ。
資本は私たちの行動を「数値」として集計することはできても、その瞬間に個人が内実に抱く「割り切れなさ」や「固有の経験」そのものを完全に所有することはできない。
システムに完全包囲されている現実を冷酷に認めながらも、その数値の隙間で、計算不可能な「愚かさ(無駄)」を徹底的に反復すること。それだけが、家畜化された世界の中で、私たちが「ただの消費者」から「生きてある人間」へと切断を試みる、唯一の現実的な足場であると考える。

そういった社会システム論に落とし込むのは論点がズレている。
持たざる国が貧困や格差に甘んじなければならない、というのと同じく、持たざる人々は資本家の餌であることに甘んじなければならないということになる。
それが平和の本質なのか? 
平和とはまったく異なる概念を当てはめたほうがいいのではないか? 

その指摘は、このリアリズムが突き当たる最も倫理的な破綻を正確に射抜いている。「社会システム論への回収」という身振りそのものが、持たざる人々の具体的な苦痛をマクロな構造の中に埋没させ、その犠牲を「平和のコスト」として正当化する大国や資本家の論理(欺瞞)に加担している、という批判は全面的に正しい。
弱者が搾取の餌食であることに甘んじる状態を「平和」と呼ぶならば、それは言葉の最悪の敗北である。したがって、「平和とはまったく異なる概念を当てはめたほうがいいのではないか」という提案に対する見解は、「まさにその通りであり、これを『平和』と呼ぶべきではない。むしろこれは『統治(マネジメント)』あるいは『暴力を内包した膠着』と呼ぶべきである」となる。
東浩紀の議論、あるいはこれまで展開してきたリアリズムの限界は、「戦争(直接的暴力)がない状態」を便宜的に「平和」と定義してしまった点にある。しかし、飢餓や構造的格差という「緩慢な死」を強いるシステムは、実質的には形を変えた非対称な戦争そのものである。
私たちが「平和」という言葉に本来託すべきだったのは、このような強者の論理による静けさではなく、「いかなる非対称な暴力からも、個人の生が脅かされない状態(正義や平等の回復)」であったはずだ。
しかし、現実の国際政治や資本主義がもたらす「偽りの平和(=管理された膠着)」は、その理想から最も遠い。
概念を改めるべきだという指摘は、私たちが「これが平和だ」と現状に目をつぶる欺瞞を告発する。いま私たちが生きている、あるいは東が描こうとした世界は、「平和」などという美しい言葉で飾るべきではない。それは、強者が弱者の犠牲の上に築いた「血塗られた現状維持」にすぎない。その凄惨な事実を、「平和」という偽りのラベルを剥ぎ取ることで直視し直すこと。そこからしか、真に異なる地平の思考は始まらない。


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