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「短編小説」 《 ル ー プ 》

 朝から降り続いていた雨は、昼過ぎても止む気配がなかった。

 おんぼろ車のワイパーが、唸るような音を出し、一定リズムで雨粒を払い続けている。その音だけが、雨に吸い込まれた午後の静けさを刻んでいた。
 
 信号が青に変わる。
 車はゆっくりと動き出す。
 見慣れた県道、毎日通る帰り道。
 その途中に懐かしい小さなバス停がある。
 塗装の剥げかけた板一枚分の屋根。
 錆びたベンチ。
 色あせた時刻表。
 そして、その中に一人の女性が立っていた。
 
 白いブラウス。
 紺色のスカート。
 ピンクの小さな傘。
 肩まで伸びた髪が雨に少し濡れているよう。
 拓哉は、思わずアクセルを緩めた。

(……夏子)

 見間違えるはずがない。二年間、一番近くにいた人。
 彼女も傘越しに、こちらを見ている。
 目が合った……ほんの1~2秒。
 でも、それだけだった。

 助手席は空いている。スピードを落とし窓を開ければ、まだ声は届く。

(乗る?)

 その一言くらい言えたはず。

 拓哉が前を見なおした車は、静かに、小さな水しぶきを上げ、バス停を通り過ぎ、ルーム・ミラーの中の彼女は少しずつ小さくなっていった。
 鏡の中の彼女は動かず、手を振ることもなく。ただ、傘を持ち、走り去る車を見送っているよう。
 雨音が二人の間を埋めていった……。

 初めて会った日も雨だった。卒業間際、大学近くのバス停。講義が終わった帰りの、突然の夕立。
 傘を持っていたのは拓哉だけ。雨の中、隣で困っている彼女に、勇気を振り絞り声をかける。

「……入る?」

彼女は天使のような笑顔を、傘を差しだした男に向けた。

『ありがとう』

その笑顔は、不思議なくらい雨に似合っていた。

 そこからの始まり。
 ふたりにとって、もう、そのバス停は、待つ所でも、家に帰る所でもなく、逢う場所になった。
 授業帰り。バイト帰り。何でもない普通の日も。

「今日もここね」

 待ち合わせの連絡すらいらない。古い、大学前の、オンボロバス停。
 気づけばどちらかがそこに立っていた。

 付き合って一年。

 二人は、この世界の全部を知った気でいた。海へ行った。山へ行った。
夜中にコンビニまで歩いただけの日もあった。ファミレスで未来を語った。
 二人の間には、もう距離が無くなっていた。ふたり共すぐそばにいた。
 拓哉と夏子は、ひとりの様に振る舞い、ひとつ心のまま、ふたりの様に、お互いが、子犬のようにじゃれあった。
 
 バス停を卒業する為、拓哉が買った10万円の車の助手席で、夏子は運転している彼にしがみつき、顔を胸のあたりにうずめて言う。
 「もうあなたしか見えない」
 
 あまり育ちの良くない拓哉が、レストランで、カレーとご飯を混ぜながら食べているのを見た夏子は、大きな目をこらして言った。
 「私もやってみようかしら」
 
 その時拓哉は(カレーは混ぜては食べない)と初めて知った。
 
 山の休憩所。ベンチに座り、夕陽を眺めている拓哉。そのサン・グラス下の横顔に、夏子は頬杖をついて言った。
 「なんて眩しい横顔なの」

 二年目。
 夏子は、
 「子どもは二人かな。犬も飼いたい。住む所はパン屋さんの近くがいい」

 「なんで?」
 
 「焼きたての匂いで毎朝起きたいから」

 二人は笑った。
 笑い続けた。
 未来は、当たり前のように、すぐにでも来ると信じていた。
 だが、それぞれが卒業し、仕事に就き、二人は社会に順応する為、忙しくなった。

 拓哉は営業職。朝からあちこちと移動し、帰社すると営業成果と次の営業計画を立てる。顧客からの連絡対応、発注業務や、新しい知識の勉強会。帰宅は毎日深夜。

 音楽家志望の夏子はピアノ教師。生徒達の授業スケジュールと、まだ慣れない出張レッスンで、昼間はクタクタ。拓哉との連絡も減る。移動中タクシーからのライン・メッセージ。
『拓哉、仕事中?』
『うん』
『わかった。また今度ね。お互いにもう少ししたら仕事に慣れるわ』
『わかってる。落ち着いたらゆっくり逢いたい』

 お互いの言い訳だったのか、本当の事だったのか、暫くは、社会に流され、その "今度" がなかなか実現しない。

 喧嘩は、小さなことだった。いや、正確にはふたりの喧嘩ではなかった。

 拓哉が車で、久しぶりに夏子の自宅近くで待っていた時、見知らぬおばさんが通りかかり、拓哉は普通に声をかけられた。
「あそこの温泉宿のお嬢さんを待ってるの?ピアノの先生」

 ご主人と離婚し、御袋さんが一人できりもみしている温泉宿のひとり娘が夏子だった。

 「あっ、はい、そうです」

 「なぜか、あの人の土地だけに温泉が出るのよ、私の家とは目と鼻の先なのに」

 すぐ近所の人の様だった。
 おばさんが悔しそうにそう言った意図もわからないまま、拓哉は、言ってはならない事を言ってしまった。

 「いつもお世話になっています」

 おばさんは目をまるくし、拓哉の車から足早に立ち去ろうとした。後ろから近づいて来る夏子の姿に気づいたからだ。
 慌てて離れて行くおばさんの後ろ姿を見ながら車に乗った夏子が言った。
 「何、話してたの」
 「……うん」
 拓哉は、何故か、今の会話は言わない方が良いと思い、口を噤んだ。

 次に逢った時、夏子は、自分の母親が怒っている事を口にした。拓哉は、誰に、何を怒っているのか想像もつかなかった。それが、まさかあの日、あのおばさんとの会話が原因だった等、知る由も無い。
 拓哉は、裕福な育ちではなかったが、甘やかされていたのだ。
 
 「あなたのせいじゃないの。お母さんのプライドが高いだけ」

 「何の話?」

 「わからないの?」

 「うん」
 
 夏子は、少し残念そうにし、はっきりとした大きな目を開いて言った。
 
 「うちは、近所……いや町内から羨ましがられてるの。と言うか、妬まれてると思うわ。ほんの数メートルの差で、うちだけに温泉が出てるから、それもかなり良質。旅館をやりたいから温泉をひかせてくれって近所や町内の頼みを、お母さんは全部断った。だから、近所付き合いも出来ないし、母もあんな性格だから、今さら仲良くなろうなんて思ってないの。そして、そこに、私を待っているあなたが現れたってわけ。意味わかるかしら」

 「……つまり、どういう事?」

 「母は、誰にもお世話になんてなっていないし、なりたくもないのに、あなたと、この前のおばさんとの会話に色々と付け足された噂話が、近所で大盛況。独り勝ち温泉宿のあと取り。そして私の結婚話が勝手に持ち上がり、そこから根も葉もない噂が瞬く間に広がったの」

 拓哉は、あの時の感情を思い出した。一度言った事は黙っていても知られてしまい、撤回も出来ないと思い知る。

 「でも、それは近所と、お母さんが悪いのよ。あなたじゃない。あなたには悪気なんて無かったんですもの」 

 「ごめん」

 「謝らないで、悪いのは拓哉じゃないの」

 母親が怒ってる事を聞かされ、結婚は二人だけの話ではない事も思い知らされた。

 ……半年が経った。二人の思いと関係は、以前とあまり変わらないように見えた。
 しかし、当然のように見ていた未来に進めなくなった。世間に慣れ、仕事を落ち着かせ、逢う機会は増やせ、お互いを思い遣る心も変わってはいない。
 だが、二人とも、次のページの端を持とうとはしなかった。
 
 甘やかされて育てられた拓哉にとって、それは、自分で解決も出来ず、いつまでも抜け出せないトンネルのよう。
 吹雪の中の遭難のように、同じ所をぐるぐると廻っているだけ。
 夏子の、何も変わらない気丈な振る舞いが、拓哉が迷うトンネルから、照明をひとつひとつ消していく。
 
 ……雨の中、もうすぐ、車から降りるバス停で……。
 そう……夏子は自宅まで拓哉に送ってもらってはいなかった。拓哉も、あの町内に、もう近づいてはいない。
 母親には、あれから自分の事、どう思われているのか、拓哉は恐ろしくて聞いてもいない。その思いも、拓哉がトンネルから抜け出せない理由のひとつ。
 拓哉の車から降りたバス停近くで、夏子はいつもの様にタクシーを拾い、『独りで帰って来た』と、母親をいつも安心させ、納得させる。つまり母親は、まだ拓哉を赦してはいないと言う事。
 
 拓哉はブレーキを踏み、バス停の少し手前でハザードを灯す。夏子は停車した車のドア・ノブに指をかけ、拓哉に向き直った。

 「拓哉、楽しかった。本当に……」
 
 当たり前すぎて、今まで口にした事もない夏子の神妙な趣に、拓哉の心がザワついた。
 そして夏子は、少し戸惑い、今度は言いたくない事を言うようなそぶりを見せた。夏子がこっちを向いて言ったのか、外を見ながら言ったのか拓哉はもう憶えてはいない。
 
 「私……私があなたの人生にいる意味はある?」

 「えっ……」

 雨音と沈黙だけが残った。
 恋人は、言葉より沈黙で別れる、と言う台詞が、拓哉の中で何かの映画のワン・シーンの様に響く。
 
 少し間を置いて、拓哉の返事にも期待しないドアがバタンと音を出し閉じる。
 ジャンプ傘の開く音がかすかに聞こえ、後方から、バスのヘッド・ライトが、ルーム・ミラーに邪魔と言わんばかりに眩しく反射した。
 拓哉は真っ白な頭のまま、手慣れた儀式のようにウインカーを出し、アクセルを踏む。そして、少し先のコンビニにまで車を走らせ、乗り入れた。
 
 拓哉は、今日の買い物で、珍しく何も買おうとしなかった夏子を想い出した。いつもは何かをふたり分買って、それを眺め、お互いを思い遣り、離れていてもお互いを想い出せるようにしていたルーティン。

 『ちゃんと、このアクセサリーつけておいてよ』
 夏子の声が想い出となって響いた。
 
 拓哉は、恐る恐るスマホのライン画面を開き、凝視し続けた。
 もう20分近くコンビニに停車している拓哉のオンボロ車を、若い店員が横目で見ている。
 夏子とのラインに、こんなにも勇気がいるとは思わなかった。
 拓哉は、できれば既読にならないよう願いながら、自分の気持ちを文字にし画面に打ち出した。これも言ってはならない言葉なのだろうか……。

 『夏子、さっきのどういう意味?』

 少しして既読がつき、また少しして着音が鳴った。既読から返信にはそう時間がかかってはいない。

 『嫌いになったわけじゃないの』

 拓哉は、少しほっとさせるその画面の文字を見つめていた。暫くすると、再び着音が響く。

『でも、このままだと好きだった想い出まで嫌いになる』

 拓哉の指は、返信の為の言葉を打ち込めなかった。
 少しして、その言葉を夏子が送って来た。

『ありがとう』

 どうして『ありがとう』なのか……拓哉には自分の気持ちも、送って来た夏子の気持ちも、何の理解も意味もわからないままスマホから目をはなした。
 しばらくして、曇りはじめたガラスのドアを開け、どうでも良い何かを買う為、雨の中、コンビニの入り口に向かい、歩き出す。
 
 自動ドアが開くと、冷たい風が、濡れた拓哉を迎え、コンビニの店員が「いらっしゃいませ」と冷たく声をかける。
 感情は上気しているのに、何もかもが冷たい。
 拓哉はカウンターに行き「ホットをひとつ」と言って、閉じたラインのスマホ画面をレジの前にかざした。濡れた髪が、冷たいエアコンの風になびいた……。

 お互い、連絡の無いまま半年が過ぎた。
 拓哉の仕事は順調だった。顧客も増え、社内外での評価も高くなった。笑うこともある。友人もいる。普通に生きている。
 拓哉は仕事だけに集中し、夏子を想い出さないよう努力した。夏子を特別だと思わないよう自分に仕向けた。それがふたりにとって、どこにでもある極普通の事だと思いたかったからだ。
 
 ある日、買い物の為立ち寄ったモール街。
 拓也が通りかかったおもちゃ売り場で、子供がしきりに何かを母親にせがんでいる様子が目にとまった。自分の子供の頃を想い出したのだろうか、理由はわからないが、拓也はその光景から目が離せなかった。
 子供は駄々をこね、その場から動こうとしない。子供には特別に見えるそれは、母親にしてみれば価値や意味はない。子供の本心を知っているかのように、甘やかさないしっかりとした母親。
 買って買ってと叫び続ける子供を後目に、知らんぷりして先へ進む母親を見ながら、その子は今までの態度が嘘のように、突然冷静になり、しっかりとした口調で呟いた。
「ちぇっ、上手くいくと思ったのに、お母さん行っちゃった」

 拓哉は、はっとした。
 もしかして夏子は僕を試したのでは……。
 夏子は自分の恋心を犠牲にし、僕が彼女にとって何者であるのかを確かめようとしているのでは……だからあんな言を……。
 夏子は、優柔不断な坊ちゃんのような僕が嫌いになったわけじゃなく、僕の本心を確かめるため、自分が本当に好かれているのか、僕がどれだけ本気なのか試している……夏子が僕の本心を求めている……最初から、ずっとそうだったに違いない。

 (何故今まで気づかなかったんだろう)
 
 拓哉は、突然、目の前に灯った光で、明るいトンネル出口にまで一気に辿り着いたような気がした。買い物も忘れた拓哉は、モール街を出ながら、今まで忘れようと努力してきた夏子の言葉や仕草、表情を出来るだけ想い出そうとしていた。

 ……相変わらず、唸るワイパーが雨をゆっくりと拭う。
 
 見慣れた県道。
 見慣れたバス停。
 そこに、一人の女性が立っていた。

 白いブラウス。
 紺色のスカート。
 もう肩下まで伸びている長い髪。
 そしてピンクの小さな傘。
 いつも助手席は空いている。

(乗る?)

 その一言だけで、何かが変わる。

 だが、拓哉はアクセルを緩めなかった。車は雨音としぶきを残し、静かにバス停を通り過ぎる。ルーム・ミラーの中で、彼女が少しずつ遠ざかる。

 彼女は追いかけない。彼も振り返らない。だがあの日と違うのは、二人とも、もう『今の理由』を知っているということ。
 
 雨の中、遠ざかる二人の距離が、以前より、さらに激しく、燃え盛る炎の様に、どんどんと近づいていた。
 今まで一緒にいたどんな時よりも、強く、鮮明に輝く、ふたりに映し出されているふたりだけの絆。拓哉はそれを確かめる為、この場から離れようとしている。

(夏子。僕が気づいた事を、もう君は知っているはずだ。君はそのバス停からはバスに乗ってはいない。少し時間がかかったけど、次は君の前で、堂々と、胸を張ってブレーキを踏む事にする)

 その時、拓哉のスマホに夏子のプロフィールが表示されたライン着音が響いた。もうお互いにわかりきっているラインの内容。拓哉は、あの時の、最後のライン『ありがとう』の意味を、やっと理解した。
 拓也はスマホを握り、少し先のコンビニ駐車場に向かって儀式のようにウインカーを点滅させる。
 
 相変わらず雨は止んではいなかったが、拓哉の心は夏空のように、どこまでも逞しく晴れ渡り輝いている。
 
 バス停で出逢った最初の日の『ありがとう』が、もう、めくる必要のない、はっきりとした未来に続くふたりのページとして熱く焦がされるのを、今か今かと待ちわびていた。


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