21歳で佐賀の酒蔵を継いだ話|光武酒造場14代目のはじまり
大学3年の1月に、私は社長になりました。
もう44年も前の話になります。
大学3年の冬、私は横浜のアパートで、大家さんに「家から緊急の電話だよ」と呼び出されました。当時は携帯電話などありません。借りた電話の向こうで告げられたのは、父の危篤でした。とるものもとりあえず飛行機で佐賀へ飛び、病院に着いたときには、父の意識はもうありませんでした。心臓だけが動いている。管を止めるかどうかを、最後は私が決めました。「もう、しょうがないです」と。

そうして私は、創業1688年、300年以上続く光武酒造場の14代目になりました。21歳です。……と書くと立派に聞こえますが、正直に申し上げると、私が継いだのは「いつ潰れてもおかしくない、小さな酒蔵」でした。
小学2年生で「俺は継ぐんだ」と思っていた
継ぐ覚悟だけは、やたらと早くからありました。しかも、誰かに言われたわけではありません。小学校2年生のときには、もう「俺は継ぐんだ」と勝手に決めていました。
もっとも、当時の私に立派な志があったわけではないんです。景気の良かった時代の蔵しか見ていなかったので、幼心に「継げば、まあ楽なんだろうな」ぐらいに思っていた。今思えば、ずいぶんのんきな跡取りです。
それでも、決めたからには逆算して生きました。部活も、友達づくりも、大人と付き合うことも、「いつか蔵をやるときに役に立つように」と一応は計画してやっていた。進学先も、経営を学ぶつもりで関東学院大学の経営学部を選び、マーケティングを専攻しました。跡取りとしては、我ながら準備のいいほうだったと思います。
憧れの東京と、サントリーのビル
とはいえ、田舎の若者らしいミーハーな憧れも、人並みにありました。田舎の兄ちゃんが東京に憧れて出ていく——長嶋茂雄でもあるまいし、と自分でも思うのですが、受けた大学は東京と横浜だけです。
地元に戻ってからも、20代のうちは月に一度は必ず上京していました。商談があったわけではありません。ただ、都会の熱量に当てられて、自分に発破をかけに行っていたんです。
とくによく覚えているのが、サントリーさんのビルの前です。夜遅くまで煌々と電気がついているのを下から見上げて、「サントリーさんもこんな時間まで頑張っているんだから、私も頑張らないと」と、一人で言い聞かせていました。今思えば、勝手にビルに励まされていただけなのですが、あの時間は本気でした。

本来なら、卒業後はキリンさんかサントリーさんで数年修行して、30歳くらいで蔵に戻るつもりでした。その計画を早めたのが、父の病でした。
大学3年の1月
父は10年ほど、肝硬変を患っていました。いつかは戻ると腹はくくっていたつもりです。それでも、こんなに急に来るとは思っていませんでした。
帰郷前の送別会は、まだ春休み前のキャンパスで開いてもらいました。友人たちは「頑張ってこい」「だめだったら戻ってきて一緒に勉強しよう」と送り出してくれた。学生時代に打ち込んだギター部は、卒業前の私をOBとして迎えてくれて、今でも横浜に行けば仲間が集まってくれます。ありがたい話です。
——と、しんみりしたところで白状しますと、あの冬の心残りは、父のことだけではありませんでした。横浜に、彼女を残してきたことです。遠距離になって、電話だけの仲は、まあ、続きませんでした。21歳のひと冬で、私はいろんなものと、いっぺんにお別れしたわけです。

下から2番目…もうちょっと立派な会社だと思っていた
3月に地元へ戻り、まずやったのは、数少ない取引先への挨拶回りと、酒造りでした。午前は仕込みに入り、午後はたった一人いた番頭さんの配達について回って、営業を覚えました。
そして、現実を知ります。恥ずかしながら、私は自分の家の会社を「もうちょっと立派なもの」だと思い込んでいたんです。ところが蓋を開けてみれば、当時の佐賀県に49あった蔵のなかで、うちは下から2番目。48番目でした。造りは200石ほど、社員は一人、あとは母と、冬場だけ来てくれる季節の蔵人が数名。想像していた景色とは、だいぶ違いました。

主力銘柄の「金波」は、日本一の甘口王国である佐賀にあって、なぜか辛口。どうして辛口なのかと聞かれても、うまく説明できません。強いて言えば、うちの家系に流れる「周りと同じことはやりたくない」という、少々やっかいなDNAのせいだと思っています。
誰も止める人がいなかった
帰ってすぐ、私は代表になりました。反対する人は、一人もいませんでした。
若造がいきなり継いで、周りは不安ではなかったのかと、よく聞かれます。答えは簡単で、止める人が誰もいなかったんです。つまり、やりたい放題でした。
当時の日本酒業界は、値段が横並びの世界でした。足並みをそろえて値上げし、そこから外れると呼び出される。私はといえば、大学でマーケティングをかじって自由競争のなんたるかを知っていたものですから、違う値付けや違う売り方を平気で試しては、数えきれないほど呼び出しを食らいました。そのたびに「おかしいな」「ずいぶん古い業界だな」と思い、また例のやっかいなDNAが「違うことをやろう、違うことをやろう」と疼くのです。
念のため申し添えますと、この時期の私に、社長になれた高揚感などは微塵もありませんでした。社長、社長と持ち上げられても、所詮は潰れそうな会社の社長です。うれしいはずがない。ただ、やるしかなかった。私は基本、"謙虚な人間"ですから。——その謙虚な人間が、税務署に呼び出されながら「違うことをやろう」と息巻いているわけですから、我ながら少しおかしな話です。
ただ、これがどういうわけか、楽しかったんです。酒は売れない、体はきつい、苦しいことばかりなのに、なぜか面白い。継いでから5年ほど、私は1日も休みませんでした。休む理由が、思いつかなかったのです。
謙虚であること。そして、先を読むこと。この二つは、光武の家に代々、言葉で受け継がれてきたものです。潰れかけの蔵を継いだ25、6歳の私が、その両方を頼りに最初に手をつけたのが、昔のお客さまを一軒ずつ訪ね歩く「掘り起こし営業」と、地元で誰もやっていなかった大吟醸でした。
次回は、その話をいたします。

