本能寺の変1582 【重史271】 №6-241 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史271】 №6-241
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男
2光秀という男 1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
3光秀の後継者 1 信長の後継者 2 光秀の後継者 3 明智の将来
4 先祖の教訓
5 大量殺戮
6 三人の謀叛人 1 丹波 波多野秀治の謀叛 2 大和 松永久秀の謀叛
3 摂津 荒木村重の謀叛 4 光秀の総括
←3 志向の相違 光秀の苦悩
1粛清の怖れ
2 光秀の老い
3 四国問題 躓き
4 事態急変
5 志向の相違
6 自立への道
←4 武田の滅亡
1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断 大要 概略
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日
4月24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
5月11日
3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
5/5 概
5月15日 大 概
密室にて 大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
⑤ 概
4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
5月17日
坂本にて 目次 大 概
1 2 3 ① ② ③
4 ① ② 5 6
5月19日 大 概
5月20日 大 概
5月21日 大 概
5 謀叛人の顔 1 三人の末路
2 信長の弱点
時は今、・・・・・
5月26日 大 概
5月27日 大 概
5月28日 大 概
5月29日 大 概
←さる程に、不慮の題目出来候て、
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←【抜粋】
←【注目ポイント】 目次
←【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
←「その一因」 目次大 概説大 目次中
←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史271】 №6-241
①七月三日、信長、御官位を進められ候への趣、勅諚御座候
②御斟酌(しんしゃく)にて御請けこれなし。
③併(しかし)ながら、内々、御心持候ふや、
④明智十兵衛は惟任日向になされ、
『信長公記』
天正三年1575、七月三日。 1575000703
六月二十七日、
信長は、京に着いた。
宿所は、相国寺。
御小姓衆五、六人召し列れられ、
六月廿七日、御上着。
相国寺に御寄宿。
(『信長公記』)
おそらく、光秀も、これに付き従って上洛しただろう。
信長は、この日から、七月十四日まで十七日間、都に滞在することになる。
七月三日、
信長は、朝廷から、官位に就くよう薦められた。
だが、これを断った。
考えがあってのことだった。
七月三日、
信長、御官位を進められ候への趣、勅諚(ちょくじょう)御座候と雖も、
御斟酌(しんしゃく)にて御請けこれなし。
信長は、平氏。
源頼朝を強く意識していた・・・・・。
その先例に倣ったものだろう*1。
信長は、かなりの勉強家・努力家だったように思う。
「吾妻鑑」*2等を熟読していたのではないだろうか。
故事にも、通じていた。
行動の規範を、歴史上の人物にもとめていた節がある。
信長は、忙しい。
おそらく、諸書に詳しい者を側においていたのだろう。
そして、時折、講釈させて、その中から、特に気に入った書物を見つけ出し、それを何度も読み返し吸収した・・・・・。
その様な気がするが、如何だろうか。
同日
信長は、自身に代わり、主立った家臣たちを任官させた。
松井友閑 宮内卿法印
武井夕庵 二位法印
明智光秀 惟任(これとう)日向守
簗田広正 別喜(戸次)右近大夫(だいぶ)
丹羽長秀 惟住(これずみ)
併(しかし)ながら、内々、御心持候ふや、
御家老の御衆、
友閑は宮内卿法印、
タ庵は二位法印、
明智十兵衛は惟任日向になされ、
簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ、
丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ、
忝(かたじけな)きの次第なり。
(『信長公記』)
光秀は、この日から惟任日向守になった。
また、この時、次の者たちの除目もあったようである。
羽柴秀吉 筑前守
村井貞勝 長門守
塙直政 備中守
滝川一益 伊予守
これを見るに、惟任・惟住・戸次は九州の名族の姓。
また、受領名はすべて九州・中国・四国の国々である。
信長は、家臣らに、西国へ向かう決意を表明した。
同時に、信長に対する家臣らの呼び方が変わった。
「殿様」から、「上様」へ。
(八月二十四日付橘屋左衛門慰宛武井夕庵書状「織田信長文書の研究」)
*1、2
「吾妻鑑」は、鎌倉幕府の手により編纂された歴史書である。
「東鑑」とも記される。
源頼朝の挙兵(治承四年1180)から六代将軍宗尊親王の帰京(文永三年
1266)までの事蹟が編年体で書かれている。
武家政権の最初の記録であり、鎌倉時代を知る上で欠くことのできない
基本史料である。
ここで、参考までに源頼朝の経歴について大略を示す。
信長の、朝廷に対する姿勢を比べてみれば面白い。
久安三年1147 源義朝の子として生まれた。
永暦元年1160 父義朝は、平清盛との合戦に敗れ、逃げる途中、
尾張知 多郡で長田忠致(おさだただむね)に謀殺された。
治承四年1180 挙兵。
文治元年1185 平氏を滅ぼす。
〃 五年1189 奥州藤原氏を滅ぼす。
朝廷より按察使への任官を打診されるも拒否。
建久元年1190 後白河法皇と対面し、権大納言右近衛大将に任ぜられ
た。
ほどなくして両官辞任。
〃 三年1192 法皇、没する。
征夷大将軍に任ぜられた。
〃 五年1194 征夷大将軍の辞任を申し出るも受理されず。
〃 四年1193 富士の裾野で巻狩りが行われた。
正治元年1199 死去、享年五十三。
死因は、落馬と云う。
【引用】
⇒ 次へつづく
