見出し画像

本能寺の変1582 【重史270】 №6-240 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史270】 №6-240

はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
【五大要因】  
1 時代の風潮
 
 1戦国時代=相互不信の時代
  2美濃
  3尾張
2 光秀の実像
 
 1信長という男
  2光秀という男  1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
  3光秀の後継者  1 信長の後継者 2 光秀の後継者 3 明智の将来
  4 先祖の教訓
  5 大量殺戮
  6 三人の謀叛人  1 丹波 波多野秀治の謀叛 2 大和 松永久秀の謀叛
            3 摂津 荒木村重の謀叛  4 光秀の総括
3 志向の相違 光秀の苦悩 
 
 1粛清の怖れ
  2 光秀の老い
  3 四国問題 躓き
  4 事態急変
  5 志向の相違
  6 自立への道
4 武田の滅亡
 
 1甲斐遠征
  2勝頼の首
  3武田効果
5 信長の油断 大要 概略
  
「事態急変」
  1 勝利の余韻  概略 4月21日
              4月24日
  2 四国出陣   概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
              5月11日
  3 足蹴事件 概略 5月12日  1/5  2/5  3/5  4/5
                     5/5
            5月15日
            密室にて   1/3  2/3  3/3
                         ④ 概
                     ⑤ 概
  4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
              5月17日
            坂本にて 目次
                          
                        5 6 
              5月19日 大 概
              5月20日 大 概
              5月21日 大 概
  5 謀叛人の顔    1 三人の末路
             2 信長の弱点        
  時は今、・・・・・
              5月26日 大 概
              5月27日 大 概
              5月28日 大 概
              5月29日 大 概
さる程に、不慮の題目出来候て、

【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
【抜粋】
【注目ポイント】 目次
【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
「その一因」 目次大 概説大 目次中 
3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正

【重史270】 №6-240

①六月廿六日、御上洛。

②早舟にめされ、坂本に至つて御渡海。

                       『信長公記』

天正三年1575、六月二十六日。              1575000626

信長は、突如、京へ向かった。

  六月廿六日、御上洛。

途中、佐和山で暫し休息した後、船で坂本へ渡った。

  其の日、佐和山にて、少しく御休息なされ、
  早舟にめされ、坂本に至つて御渡海。
  少し、風有り。

岐阜 ━ 佐和山間、凡そ十五里60km。
佐和山 ━ 坂本間、湖上、凡そ十一里44km。
この日の移動距離、合わせて、凡そ二十六里104km。

信長は、光秀を重用した。
この頃は、特に、緊密な関係にあった。

その証拠である。

次は、越前。
信長は、前年 (天正二年1574) 、伊勢長島の一向一揆を殲滅している。

その次、丹波。

そして、石山本願寺。

その様な局面だった。

となれば、・・・・・。
「明智光秀」
話は、尽きず・・・・・。

この日、信長は、坂本城に泊った。

主君の御成りである。
光秀は、家族総出で出迎えた・・・・・。

信長は、光秀の家族のことをよく知っていた。
嫡男光慶は、まだ、六歳。          →【人物】 【重史014】
幼少である。

その上に、年の離れた姉たちがいた。
長女・次女については、残念ながら、その名も、生年もわからない。
三女が、後の細川ガラシャである。        →【人物】 ◎第68話
この時、十三歳。

信長は、前年、光秀に、彼女たちの婚姻を命じている。
相手は、以下の三人。

 織田信澄(信長の弟 信勝の嫡男)          →【人物】 ◎第68話
 荒木村次(村重の嫡男)             →【人物】 ◎第68話
 細川忠興(藤孝の嫡男)             →【人物】 ◎第68話

このことについて、肥後熊本藩主細川氏の家史「綿考輯録」に、以下の記述がある。                     →【人物】 ◎第68話
参考までに。

細川忠興に嫁いだ「光秀の息女」は、三女とされている。
 
  一、天正二年、甲(きのえ)戌(いぬ)、正月、
    藤孝君を始め、諸将岐阜え至り、年頭の賀を述べらる、
 
    同十七日、御饗応有り、
    藤孝君・蒲生・青地・池田・松永・筒井・畠山・中川・閉地・関・
    分部・平塚等なり、
 
    此の時、信長公仰せに、

    明智光秀の四男を筒井主殿入道順慶の養子とし、

    光秀の娘を織田七兵衛信澄 信長の御舎弟 勘十郎の子なりに嫁すべ
    き由、

    又、藤孝君に光秀と縁家たるべきよし命ぜられ候、

    (細川)藤孝君は、忠興君の剛強に過ぎると言を以って御辞退成され
    候えども、
    信長公よりも教誡を加えらるべき旨にて、再三仰せによって、
    与一郎(忠興)君と光秀の息女御縁約の事を諾せらる、 

また、織田信澄については、「寛政重修諸家譜」にも、妻は光秀の娘とある。
文中、「光秀が女」は、おそらく、長女であろう。 →【人物】 ◎第68話
 
  (天正十年)六月、右府事(本能寺の変)あるのち、
  神戸信孝・丹波(羽)長秀等、
  信澄をうたがひて、俄かにこれをせ(攻)む、
  このとき、従兵、皆城外にあり、
  信澄、勇なりといへども、兵少うして、多勢に敵しがたく、
  つゐに千貫櫓にをいて自殺す。
  年二十八。或いは、二十五。
  室は、明智日向守光秀が女

三女は、忠興へ。
長女は、信澄へ。
となれば、二女は村次へとなる。          →【人物】 ◎第68話
これについては、「立入左京亮入道隆佐記」に、次の記述がある。
この女性「日向守むすめ」は、村重の謀叛時、離縁され、光秀のもとに帰された。
後、明智秀満に再嫁。

  天正六年霜月(1578年11月)より、七年の十二月まで、
  せめつめ(攻め詰め)られ、

  其の内に、荒木(村重)は、尼崎へ、九月比(頃)、有岡を忍び出で候、
  女・子供をば、有岡に置き、其の身、忍び出で、
  荒木父子どもは、尼崎に籠城候、

  有岡には、荒木久左衛門(家臣)請け取り、籠城仕り候ところ、

  惟任日向守、丹波の国、ことごとく切り志たが(従)へ、
  荒木新五郎(村次)は、惟任日向守むこ(婿)に候まま、
  則ち、日向守、扱い(調略)を入れられ、種々調(ととの)い、
  共にて、有岡を明けて渡し申すべきに相究め、
  先に、日向守むすめをうけとられ候、


 【引用】



 ⇒ 次へつづく


いいなと思ったら応援しよう!