本能寺の変1582 【重史272】 №6-244 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史272】 №6-244
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男
2光秀という男 1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
3光秀の後継者 1 信長の後継者 2 光秀の後継者 3 明智の将来
4 先祖の教訓
5 大量殺戮
6 三人の謀叛人 1 丹波 波多野秀治の謀叛 2 大和 松永久秀の謀叛
3 摂津 荒木村重の謀叛 4 光秀の総括
←3 志向の相違 光秀の苦悩
1粛清の怖れ
2 光秀の老い
3 四国問題 躓き
4 事態急変
5 志向の相違
6 自立への道
←4 武田の滅亡
1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断 大要 概略
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日
4月24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
5月11日
3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
5/5 概
5月15日 大 概
密室にて 大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
⑤ 概
4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
5月17日
坂本にて 目次 大 概
1 2 3 ① ② ③
4 ① ② 5 6
5月19日 大 概
5月20日 大 概
5月21日 大 概
5 謀叛人の顔 1 三人の末路
2 信長の弱点
時は今、・・・・・
5月26日 大 概
5月27日 大 概
5月28日 大 概
5月29日 大 概
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
←【抜粋】
←【注目ポイント】 目次
←【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
←「その一因」 目次大 概説大 目次中
←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史272】 №6-244
①芸・但(安芸・但馬)間、和与につきて、
②但州の儀、申し旧(ふ)り候ごとく、此方の分国たるべくの旨、
③雲・伯(出雲・伯耆)のため、
④尼子勝久・山中鹿介已下の諸牢人退治のため、
「小早川家文書」
①輝元(毛利)、相替らずの様、執り申さるべき事専一に候、
②貴所・此方入魂の趣、
③天下、猶以って静謐に候、
「吉川家文書」
天正三年1575、七月六日。 1575000706
織田と毛利は、まだ、友好関係にあった。
信長は、小早川隆景に書状を送った。
取次は、武井夕庵。
来札、披閲せしめ候、
芸・但(安芸・但馬)間、和与(和睦)につきて、償いの儀案内に及ばれ候、
其の意を得候、
但州の儀、申し旧(ふ)り候ごとく、此方の分国たるべくの旨、
兼約のところ、
近年不通に候条、遺恨候と雖も、
雲・伯(出雲・伯耆)のため、
幷(ならび)に、尼子勝久・山中鹿介已下の諸牢人退治のため、
然るべきに於いては、無事入眼(成功)、尤(もっと)もに候、
㝡(最)前の筋目依つて、御届け祝着に候、
猶、夕庵(武井)申すべく候、
恐々謹言、
七月六日 信長(花押)
小早川左衛門佐殿
(「小早川家文書」「織田信長文書の研究」)
但馬は、信長の分国である。
「此方の分国たるべくの旨」
毛利は、但馬に手を伸ばしていた。
「芸・但間、和与(和睦)」
但馬の守護は、山名韶熙(あきひろ)*。
韶熙は、織田と毛利に対し、等間の間合いをとっていた。
虚々実々の駆け引きである。
「尼子勝久・山中鹿介已下の諸牢人退治」
「無事入眼、尤もに候」
心にもないことを言っている。
「急がねばならぬ」
信長は、そう思った。
*山名韶熙は、但馬の守護。 →【人物】
出石城主(兵庫県豊岡市出石町内町)。
永正八年1511の生れ、この年六十五歳。
老人である。
永禄十一年1568、信長、上洛。
翌、十二年1569、信長は、秀吉と坂井政尚を但馬へ派した。
二万の軍勢だったという。
堺の商人、今井宗久の進言による。
「生野銀山」
信長は、そこに目を付けた。
織田軍の侵攻をうけ、韶熙は堺に逃げた。
同十三年1570、赦免され但馬に戻った。
因幡の守護、鳥取城主、山名豊国は甥にあたる。
天正三年1575、七月八日。 1575000708
この辺りまでである。
織田と毛利は、表面上、友好関係にあった。
聖護院(しょうごいん)道澄*が、安芸から帰洛した。
信長の貴重な情報源である。
信長は、小早川隆景への書状を道澄に託した。
「委曲、門主仰せ送らるべく候」
互いに腹の探り合い、というところか。
聖門、御上洛、珍重に候、
連々馳走の旨、承り届け候、
信長、別して疎意なき候条、感悦に候、
弥(いよいよ)、輝元(毛利)、相替らずの様、執り申さるべき事専一に候、
貴所・此方入魂の趣、彼の御口上候、
事旧(ふ)り候と雖も、祝着に候、
天下、猶以って静謐に候、
委曲、門主仰せ送らるべく候、
恐々謹言、
七月八日 信長(花押)
小早川左衛門佐殿
(「吉川家文書」「織田信長文書の研究」)
*道澄は、聖護院門跡。 →【人物】
近衛稙家(文亀三年1503~永禄九年1566)の子。
前久の弟である。
聖護院(京都府京都市左京区聖護院中町)は、本山派修験道の総本山。
もと、天台宗寺門派三門跡の一つ。
代々、皇族・摂家出身者が門跡をつとめた。
対立の色合いが、次第に、深まっていた。
見え見えである。
信長は、西進策を取り始めた。
「惟任日向守」
丹波・丹後、そして但馬へ。
ここまで、軍勢を展開すると表明した。
毛利は、東進策をとった。
吉川元春は、
尼子氏の残党を追って、山陰道を「因幡」へ。
その影響力は、但馬に及んでいた。
小早川隆景は、
山陽道を押さえ、瀬戸内海の制海権を握っていた。
西の端から東の端まで、全域を。
信長は、毛利氏を牽制した。
「輝元(毛利)、相替らずの様、執り申さるべき事専一に候」
口では、友好関係をつづけようと言っている。
「貴所・此方入魂の趣」
「天下、猶以って静謐に候」
だが、腹は別。
但馬について、これ以上、手出し無用と釘をさした。
両者は、激突へ向かって突き進んで行く。
【引用】
⇒ 次へつづく
