「任せる」と「丸投げ」は、何が違うのか――考える権限を渡し、支える責任は手放さない|『孫子』に学ぶ学校経営(62)
前回、私は「校長が全部決める学校は強くならない」と書きました。
校長が良かれと思って、細部まで答えを先回りして用意する。
すると、教職員が、
「自分なら、どう考えるか」
「もっとよい方法はないか」
と考える余地が、少しずつ小さくなっていくことがあります。
だからこそ、リーダーは、人が自ら考えられる「余地」を残す必要があるのではないか、と考えました。
では、その余地を相手へ渡す時、校長はどこまで任せればよいのでしょうか。
「自由にやってください」
「好きにやってもらって大丈夫です」
と伝えれば、それで主体性は生まれるのでしょうか。
今回考えたいのは、
「任せること」と「丸投げすること」は、何が違うのか。
という問いです。
『孫子』の、
「将、能ありて君御せざる者は勝つ」
という言葉を手がかりに考えてみます。
「好きにやってください」は、本当に信頼なのか
例えば、新しい行事や授業改善のプロジェクトを任せる時。
「先生の感性で、自由にやってください」
「私は口を出さないので、全部お任せします」
そう伝える。
一見すると、相手を信頼し、主体性を尊重しているように見えます。
しかし、もしそこに、
何を目指すのか。
何を大切にするのか。
どこまで自分で決めてよいのか。
何は守らなければならないのか。
困った時には、誰へ相談すればよいのか。
が何も示されていなければ、受け取った側はどう感じるでしょうか。
「どこまで変えてよいのだろう」
「後から『それは違う』と言われないだろうか」
「結局、何を期待されているのだろう」
自由を渡したつもりが、相手を不安の中へ置いてしまうことがあります。
「好きにやって」は、自由に見えて、実はとても不自由な言葉になることがある。
目的も境界もなく、責任だけを渡してしまえば、それは「任せる」よりも「丸投げ」に近づいていきます。
『孫子』が説く「君御せざる」
『孫子』の謀攻篇には、勝つための条件の一つとして、次の言葉があります。
将、能ありて君御せざる者は勝つ。
本来は、将に十分な能力があり、君主がその軍事指揮へ不必要に干渉しないなら勝つという意味です。
もちろん、『孫子』が学校の権限委譲や人材育成について語ったわけではありません。
それでも私は、
任せるに足る人へ役割を託したなら、上にいる者が細部まで支配し続けない
という点に、学校経営への示唆を感じます。
ただし、ここには難しさもあります。
「干渉しない」と、
「何もしない」は違います。
相手を信じて任せることと、
相手を一人にすることも違います。
学校で「任せる」という時、
何を手放し、何を手放してはいけないのか。
そこを考えなければ、「任せる」は簡単に「放っておく」へ変わってしまいます。
私自身も、「どこまで任せるか」で迷う
私自身、仕事を任せる時、
「ここは、もう少し伝えた方がよいのではないか」
「いや、ここまで言えば、結局こちらの答えを押しつけることになるのではないか」
と迷うことがあります。
任せた後に、
「やはり一度確認した方がよいのでは」
と気になることもあります。
けれども、その確認が、
本当に学校として必要な確認なのか。
それとも、
自分が不安だから、相手の判断をもう一度自分の手元へ戻したいだけなのか。
そこは区別して考えたいと思っています。
任せることには、案外、任せる側の「待つ力」も問われているのかもしれません。
そんな時、私は少なくとも五つのことへ立ち戻りたいと思っています。
目的。
境界。
権限。
相談。
責任。
この五つです。
まず、「何のために」を共有する
仕事を任せる時、最初に共有したいのは、
「何のために、この仕事をするのか」
です。
例えば、学校行事なら、
「子どもたちが、自分たちでつくったと実感できる行事にしたい」
という目的があるかもしれません。
授業改善なら、
「一部の子どもだけでなく、より多くの子どもが学びに参加できる授業にしたい」
という目的かもしれません。
業務改善なら、
「教育的な意味を損なわず、教職員の負担を減らしたい」
という目的かもしれません。
方法は、一つではありません。
だからこそ、迷った時に戻れるものが必要です。
「何のために」が共有されていれば、
「このやり方でよいのだろうか」
と迷った時に、目的へ戻って考えることができます。
任せるとは、答えを渡すことではなく、迷った時に戻れる目的を共有することから始まる。
私は、そう考えています。
「どこまで決めてよいか」を明確にする
目的だけでは足りません。
「どこまで自分たちで決めてよいのか」
も必要です。
法令。
安全。
予算。
教育課程。
学校として守るべき方針。
そこには、担当者だけでは動かせない条件があります。
一方で、その枠の中には、現場へ任せられる部分があります。
例えば、
「この目的は変えない」
「この予算の範囲で行う」
「安全上、この条件は守る」
と示した上で、
「その中の方法は任せます」
と伝える。
自由とは、何も決まっていないことではありません。
むしろ、
「ここまでは自分で決めてよい」と分かっているから、安心して考えられる。
その境界を明確にすることも、任せる側の仕事なのだと思います。
仕事を渡しても、権限を残していたら任せたことにならない
「担当はあなたです」
と仕事を渡す。
けれども、何かを少し変えるたびに、
「管理職に確認してください」
「副校長の了解を取ってください」
「前例と違うので、一度止めてください」
となれば、担当者は自分の判断を使えません。
もちろん、安全や法令、予算、学校全体に影響することなど、管理職が確認すべきことはあります。
しかし、何でも確認が必要なら、実際の決定権は管理職側に残ったままです。
仕事だけ渡して、決める権限は渡していない。
これは、意外と起こりやすいことではないでしょうか。
私自身も、
「任せた」
と思っているのに、いつの間にか細かな確認を増やしていないかは、気を付けたいと思っています。
任せるなら、「ここまでは自分で決めてよい」という権限まで渡す。
仕事と権限を、切り離さないことが大切です。
決めすぎても、何も示さなくても、指示待ちは生まれる
前回は、
「校長が決めすぎること」が、指示待ちを生む可能性
について考えました。
今回考えているのは、その反対側です。
何も示さずに任せることも、指示待ちを生むことがあります。
目的が分からない。
境界が分からない。
どこまで決めてよいか分からない。
困った時に相談してよいのかも分からない。
失敗した時、誰が何を引き受けるのかも分からない。
それなら、
「最初から確認しておこう」
と思うのは自然なことです。
過剰な介入と丸投げ。
正反対に見える二つが、どちらも、
「自分では決めにくい組織」
をつくることがあります。
だからこそ必要なのは、
全部決めることでも、
全部手放すことでもありません。
守るべき枠を示し、その内側の判断を渡す。
任せる難しさは、その間にあるのだと思います。
任せたなら、「自分の正解」を手放せるか
任せた後、担当者が自分とは違う方法を選ぶことがあります。
その時、私自身も、
「私なら、そうはしないな」
「もう少し、こうした方がよいのでは」
と思うことがあります。
けれども、そこで確認したいのは、
「自分の方法と同じか」
ではありません。
共有した目的や条件から外れているかどうか。
目的に合っている。
安全上の問題もない。
守るべき条件にも反していない。
それなら、
「自分なら違うやり方をする」
という理由だけで修正させない。
そこまで含めて「任せる」なのだと思います。
もし、何を任せても最後には校長のやり方へ修正されるなら、担当者はやがて、
「自分ならどうするか」
ではなく、
「校長は、何を正解だと思っているのか」
を考えるようになります。
任せるとは、相手に自分の正解を再現してもらうことではありません。
時には、
自分とは違う正解を受け入れることでもある。
これは、任せる側にとって案外難しいことだと感じます。
権限を渡しても、責任まで渡すわけではない
ここが、「任せる」と「丸投げ」を分ける大きなところだと思います。
「任せたのだから、あとはあなたの責任です」
では、担当者は安心して判断できません。
もちろん、任された側にも責任があります。
自分が引き受けた役割について考え、必要な報告や相談をし、判断する責任があります。
けれども、仕事を任せたことで、
管理職としての責任までなくなるわけではありません。
任せた後に問題が起きた時、
「担当者が勝手にやったことです」
と切り離す。
それでは、任せたのではなく、責任まで押しつけたことになります。
権限は渡す。
しかし、管理職として引き受けるべき責任は残す。
この二つを同時に持つ。
私は、そこが「丸投げ」との大きな違いだと思っています。
任せても、背を向けない
任せることは、
「あとはよろしく」
と関係を切ることでもありません。
一方で、
「今どうなっていますか」
「これは確認しましたか」
「次はどうしますか」
と細かなことまで追い続ければ、任せた意味が薄れていきます。
近づきすぎれば、相手の考える余地を奪う。
離れすぎれば、相手を一人にする。
その間の距離には、いつも同じ正解があるわけではありません。
相手の経験によっても違います。
仕事の難しさによっても違います。
状況によっても変わります。
だからこそ私は、
「今は支える場面なのか、それとも少し待つ場面なのか」
と考えながら、その距離を探していきたいと思っています。
必要な時には、
「困っていることはありませんか」
「こちらで支えた方がよいことはありますか」
と聞く。
指示を増やすためではありません。
監視するためでもありません。
「任せたけれど、一人にはしていない」と伝えるためです。
任せるとは、離れることではない。
考える自由を渡しながら、戻れる場所であり続けること。
そんな関わりなのかもしれません。
「任せる」を、五つの確認で考える
改めて整理すると、仕事を任せる時に確認したいのは、この五つです。
1 目的――何のために行うのか。
2 境界――何は守らなければならないのか。
3 権限――どこまで自分で決めてよいのか。
4 相談――困った時に、誰へつなげばよいのか。
5 責任――任せる側と任される側が、それぞれ何を引き受けるのか。
五つすべてを細かな文書にする必要はないと思います。
仕事によっても、相手によっても違います。
ただ、
「任せたつもりなのに、なぜか相手が動きにくそうだ」
と感じた時には、
この五つのどこかが曖昧になっていないか。
私自身も、立ち戻って考えたいと思っています。
「任せる」と「丸投げ」は何が違うのか
『孫子』は、
将、能ありて君御せざる者は勝つ。
と説きました。
能力のある将へ任せたなら、君主がその細部まで不必要に支配しない。
私は、この言葉を学校経営へ引き寄せながら、
任せた後まで、上にいる者がすべてを決め続けないこと
の大切さを考えます。
ただし、任せることは、
「好きにしてください」
と仕事を手放すことでもありません。
目的を共有する。
境界を示す。
権限を渡す。
相談できる道を残す。
そして、任せる側も責任から降りない。
その上で、方法を相手へ委ねる。
だから私は、
仕事だけを渡すのが、丸投げ。
ではなく、もう少しこう考えたいと思います。
丸投げは、仕事と責任を相手へ置いて、自分が離れること。
任せることは、考える権限を渡しながら、支える責任は手放さないこと。
任せるとは、
「自由にしていいですよ」
ではなく、
「ここから先は、あなたの判断を信じます。困った時には、一緒に考えます」
と伝えることなのかもしれません。
校長として、
細かな方法まで奪わない。
しかし、任せた後に背を向けない。
口を出しすぎない。
けれど、責任からも離れない。
任せながら、つながり続ける。
その距離には、おそらく完成した正解はありません。
だからこそ私自身も、先生方との対話の中で、これからも探していきたいと思います。
