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良い学校ほど、静かに変わる――小さな実践が「新しい普通」になるまで|『孫子』に学ぶ学校経営(72)

前回、私は「学校文化は、誰も決めていないのに、なぜ生まれるのか」について書きました。

文化とは、壁に掲げたスローガンだけでは生まれない。

誰かの失敗への返し方。

相談を受けた時の反応。

異論が出た時の表情。

そうした日常が観察され、模倣され、繰り返されることで、

「この学校では、こうするのが普通だ」

という感覚が、少しずつ生まれていく。

では、今ある「普通」とは少し違う実践が生まれた時、それはどうやって周囲へ広がり、やがて新しい「普通」になっていくのでしょうか。

今回は、『孫子』の形篇にある「無智名、無勇功」という言葉を手がかりに、

大きな改革ではなく、小さな実践が静かに学校文化を変えていく過程

について考えてみたいと思います。


学校を変えたい時ほど、大きく動かしたくなる

学校を変えたい。

職員室をもっと対話的にしたい。

教職員が、自分で考えながら動ける学校にしたい。

そう思うほど、つい大きな改革を始めたくなります。

私自身も、「これはよい」と思う取組に出会うと、早く学校全体へ広げたくなることがあります。

「今年度から、全校でこの方法に変えます」

「明日から、全員このシートを使ってください」

一気に変えた方が、早く成果が出るようにも見えます。

もちろん、安全や法令、子どもの権利に関わることなど、学校として速やかに改め、共通して徹底しなければならないことはあります。

そこは、ためらってはいけません。

今回考えたいのは、そうしたものとは別に、

日常の関わり方や仕事の進め方といった「文化」は、どう変わっていくのか

ということです。

文化は、

「今日から、全員こうしてください」

と言った瞬間に変わるものではないように思います。

むしろ、

「自分で考えて試すもの」だった実践が、指示された瞬間に「やらなければならない作業」へ変わる。

そんなこともあります。

だから、少し慎重でありたいと思っています。

『孫子』の「無智名、無勇功」

『孫子』の形篇には、次の言葉があります。

故に善く戦う者の勝つや、智名も無く、勇功も無し。

原文では、

故善戰者之勝也,無智名,無勇功。

とあります。

その少し前には、

古の所謂善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。

という趣旨の言葉もあります。

『孫子』がここで説いているのは、学校改革の方法ではありません。

優れた戦い手は、華々しい逆転劇を演じるのではなく、勝てる条件を整えた上で、無理なく勝つ。

だから、その勝利には、目立った知略の名声も、勇ましい武功も残らない。

そんな軍事の文脈です。

私は、この「目立たなさ」に惹かれます。

学校でも、本当に変わった時ほど、

「今年は大改革をしました」

とは言えないことがあります。

気付いたら、相談が少し早くなっていた。

気付いたら、会議で違う意見が自然に出るようになっていた。

気付いたら、誰かの工夫を別の先生が取り入れていた。

「気付けば、前とは少し違っていた。」

そんな変化にも、大きな意味があるのではないかと思います。

最初は、一人の小さな実践かもしれない

では、その静かな変化は、どこから始まるのでしょうか。

私は、

最初は、一人の小さな実践から始まる

ことがあると思っています。

例えば、学年で共通して行っている学習活動があったとします。

けれど、ある教員が一人の子どもの様子を見て、

「この子には、少し違う方法の方が学びやすいかもしれない」

と考えた。

そして、方法を少し変えてみる。

ここでいう「小さな実践」は、守るべきルールを勝手に外すことではありません。

目の前の子どもの姿を見て、今までの方法を少し問い直してみることです。

大改革ではない。

誰かに命令されたわけでもない。

目の前の子どもから始まった、小さな工夫です。

「そろっていない」で終わらせない

こうした時、

「学年でそろえているのに、なぜ違うことをしたのですか」

「みんなと同じようにしてください」

と返したら、その実践はそこで終わるかもしれません。

そして周囲も、

「前例と違うことはしない方がよい」

と学ぶかもしれない。

反対に、

「どうして、この方法を試してみようと思ったのですか」

「やってみて、子どもの様子はどうでしたか」

と確かめてみる。

すると、単に「そろっていない実践」だったものの中に、

その先生が何を見て、何を考えたのか

が見えてきます。

前例と違うことを、

「ずれ」と見るか。

「問い」と見るか。

そこが、一つの分かれ目なのだと思います。

方法ではなく、その実践を生んだ「問い」を渡す

実践の意味が言葉になると、それは一人の中だけに閉じなくなります。

「そんな方法があるんだ」

と周囲が知る。

「それなら、自分のクラスでも少し試せるかもしれない」

と思う人が出てくる。

ただし、まったく同じようにコピーする必要はありません。

ある子には合っても、別の子には合わないかもしれないからです。

大切なのは、

「この方法がよかったので、全員これを使いましょう」

と成功した方法を配ることではなく、

「この先生は、子どものどんな姿を見て方法を変えたのだろう」

「自分の学級にも、今の方法を問い直した方がよい場面はないだろうか」

と考えることです。

成功した方法ではなく、その実践を生んだ問いを共有する。

方法は違っても、

「目の前の子どもにとって、本当に今の方法でよいか」

という問いは共有できます。

その方が、教職員一人ひとりの専門性も生かされると思います。

一人への調整が、「普通」を問い直すことがある

このことは、合理的配慮を考える時にもつながります。

合理的配慮は、学校が自由に試す「例外」ではありません。

一人ひとりの状況に応じ、学びや学校生活への参加を保障するために、必要な調整を検討するものです。

課題の量を調整する。

回答方法を変える。

時間について配慮する。

そうした一人への調整を考える中で、学校側が気付くことがあります。

「そもそも、全員に同じ方法を求める必要はあったのだろうか。」

一人への合理的配慮を、そのまま全員へ広げればよいわけではありません。

けれど、そこで見えてきた環境上の課題をきっかけに、授業や学校の仕組みそのものを見直すことはできます。

それが、UDL(学びのユニバーサルデザイン)にもつながっていきます。

一人の困り感から、学校の「普通」を問い直す。

これは、特別支援教育編でも繰り返し考えてきたことです。

守るものがあるから、方法は変えられる

もちろん、何でも自由に変えればよいわけではありません。

子どもの命。

尊厳。

権利。

学びや学校生活への参加。

こうしたものは、守るべき軸です。

第50回でも、

変えてはいけないものと、変えてよいもの

について考えました。

守るべきものが明確だからこそ、そのための方法については柔軟に考えられる。

すべてを統一することと、学校として必要なことをそろえることは同じではありません。

私は、学校文化を変える時にも、この線引きを大切にしたいと思っています。

「失敗しても修正できる大きさ」で始める

新しいことを始める時、

「全校でやるか、やらないか」

という二択にすると、途端にハードルが上がります。

そこで、内容に応じて、

「まず一つの学年で」

「まず一つのクラスで」

「まず一定期間」

と、小さく試してみる。

そして、

「子どもたちにどんな変化があったか」

「続けるなら、何を修正した方がよいか」

を確かめる。

私は最近、

「失敗しても修正できる大きさ」で始める

ことを大切にしたいと思うようになりました。

小さく試せるから、

「やってみて違ったら、修正しよう」

と言える。

もちろん、安全や権利を損なうことまで「試してみる」という意味ではありません。

試してよいこと。

学校としてそろえること。

事前に相談・確認すべきこと。

その境界は必要です。

校長にできるのは、「試せる条件」を整えること

新しい実践が、必ずうまくいくとは限りません。

うまくいかなかった時、

「ほら、やっぱり前例どおりがよかった」

で終われば、次から誰も試さなくなるかもしれません。

そうではなく、

「やってみて、何が分かったのか」

「次は、どう変えられるか」

を考える。

校長として私が意識したいのは、

先生方が必要な範囲で試し、振り返り、修正できる条件を整えること

です。

どこまで任せるのか。

どこで学校として確認するのか。

どこから先は、そろえる必要があるのか。

その境界は、私自身も実践の中で確かめていく必要があります。

そしてもう一つ、

先生方の中にすでに生まれている工夫を、つぶさず、閉じ込めず、学校の学びにつなげること。

そこにも、校長としてできることがあるのだと思います。

「あの先生だからできた」で終わらせない

新しい実践がうまくいった時、

「あの先生だからできた」

で終わってしまうことがあります。

もちろん、その人の経験や力量が大きく関わっていることもあります。

だから、方法をそのまま真似すれば同じ結果になるとは限りません。

それでも、

「この実践から、自分たちは何を学べるだろう」

と考えることはできます。

何をしたかではなく、

何を見ていたのか。

何を大切にしていたのか。

なぜ変えようと思ったのか。

個人の実践を、組織の学びへつなぐ。

そうすると、「その人だけの工夫」だったものが、次の人の実践を生む種になります。

「やってください」より、「やってみたい」

すべてを最初から一斉にそろえなくてもよいことがあります。

意味を感じた人から試す。

その実践が見える。

別の人が、

「それ、面白そうですね」

「自分のクラスなら、こう変えられるかもしれない」

と思う。

そこには、命令とは違う動きがあります。

「やってください」ではなく、「やってみたい」が生まれる。

私は、文化が変わる時、この違いは小さくないと思っています。

試す。

確かめる。

修正する。

また誰かが、それを見る。

文化は、一度の通知でも、一度の研修でも変わりません。

人が納得しながら試せる時間が必要です。

早く変えたいと思う時ほど、私はこの時間を忘れないようにしたいと思います。

小さな実践が、「新しい普通」になる時

最初は、一人だけが試していた。

その実践を見た人が、

「自分もやってみようかな」

と試す。

さらに別の人が、自分の状況に合わせて取り入れる。

そうしたことが繰り返されるうちに、

「特別な先生だけがやっていること」

ではなく、

「必要なら、私たちもこう考えるよね」

という感覚へ変わっていく。

ここで共有されるのは、同じ方法とは限りません。

むしろ、

「目の前の子どもに合わせて、必要なら方法を問い直す」

というものの見方が共有される。

方法がそろうのではなく、

ものの見方が「普通」になる。

私は、文化が変わるとは、そういうことなのではないかと思います。

良い学校ほど、静かに変わる

『孫子』の「無智名、無勇功」は、本来、勝てる条件を整えた優れた戦いには、派手な知略の名声も勇ましい武功も残らない、と説いた軍事の言葉です。

学校文化の変化を、そのまま重ねることはできません。

それでも私は、

本当に根づく変化は、必ずしも派手でなくてよい

ということを、この言葉から考えます。

校長として、

「全員これをやりましょう」

とすぐ広げるのではなく、

「その実践は、何を見て生まれたのだろう」

と先生方と一緒に考える。

小さく試せる余地を残す。

実践が見えるようにする。

方法ではなく、そこにある問いを共有する。

「広げる」のではなく、「広がる」条件を整える。

そんな学校経営を、私は大切にしたいと思っています。

良い学校ほど、変化を大きく見せる必要はないのかもしれません。

気付けば、

相談の仕方が少し変わっている。

子どもの見方が少し変わっている。

先生同士の会話が少し変わっている。

そして、いつの間にか、

昨日までの「例外」が、今日の「普通」になっている。

その変化に、誰か一人の名前がついていなくてもよい。

むしろ、それくらい自然に学校の中へ溶け込んだ時、その実践は文化になったと言えるのかもしれません。

では、同じような小さな実践がいくつもある中で、

なぜ、ある行動は学校の中で残り、ある行動は消えていくのでしょうか。

そこには、学校が普段、

「何を大切な行動として扱っているか」

が関係しているのかもしれません。

次回は、

「言っていること」より「評価していること」が文化になる

ということについて考えてみたいと思います。

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