再掲(警戒レベル4)【10時間目】台風の日、休校せずに授業続行を命じた校長は本当に「アホ」なのか ※最終決断はご家庭で(生徒の命第一)
先日、台風が日本列島を直撃した。
交通機関は乱れ、暴風雨が街を覆い尽くす中で、日本全国の高校では判断が割れた。
休校を選んだ学校。そして、授業を続行した学校。
SNSやネット掲示板では、あっという間に「授業続行校長はアホ」「令和にもなって危機管理もできないのか」「生徒の命より授業を優先するのか」といったコメントが溢れかえった。
一見、その批判は正義感に満ちた正論のように聞こえる。
だが、立ち止まって考えたい。
本当にそうなのか。
休校という「正解」の罠
まず、誰もが認める事実から始めよう。
休校を選んだ校長は、様々なリスクから逃れることができる。
登下校中の生徒がケガをするリスク。
保護者から「なぜ危険な日に登校させたのか」とクレームを受けるリスク。万が一の事故が起きた際に責任を問われるリスク。
これらすべてが、休校という一言で消える。
現代社会において「休校」は、ある意味で最も合理的な自己防衛策だ。
責められる理由がなく、叩かれる要素もなく、誰も傷つかない(少なくとも表面上は)選択肢として機能する。
だからこそ、問いが生まれる。
では、それほど安全で無難な選択肢があるにもかかわらず、あえて授業続行を選んだ校長は、本当に「無能」「アホ」だったのだろうか。
あるいは、そこには私たちが見落としている何かがあるのではないか。
授業を続けた校長の「内側」
台風の日に授業続行を選んだ校長たちが、全員、危機管理意識がゼロだったとは考えにくい。
彼らもまた、同じリスクを知っている。
同じ批判が来ることも、おそらく想定していた。
それでも続行を選んだ背景には、いくつかの思想があると私は考える。
一つ目は、「困難の中で学ぶ」という教育観だ。
学校教育の本質は、知識の伝達だけではない。
人生において避けられない困難や逆境に直面したとき、どう行動するかを身体で学ぶ場でもある。
台風の日でも、適切な判断のもとで登校し、学び続けるという経験は、ある種の「精神的な筋肉」を育てる。
天候が悪いから休む。
上司が厳しいから転職する。
試験が難しそうだから受けない。
そうした選択を積み重ねた先に、どんな大人が育つのか。校長はそのことを、静かに、しかし真剣に考えていたのではないか。
二つ目は、「本物のリスク管理」への信頼だ。
授業続行といっても、多くの場合は無策ではない。
登校時間の調整、保護者への丁寧な連絡、通学路の安全確認、台風の進路と時間帯の精査——それらを踏まえた上で「この学校の生徒であれば、この条件で登校可能だ」と判断した校長もいるはずだ。
むしろ、一律に「台風=休校」とテンプレート判断することこそ、思考停止ではないか。
個別の状況を見極め、責任を持って判断することが、本来のリーダーシップではないのか。
ネット批判が見落としているもの
ネット上の「休校が当たり前」という論調には、実は大きな前提が潜んでいる。
それは**「リスクゼロが最善」**という価値観だ。
確かに、リスクゼロは魅力的だ。
誰も傷つかず、誰も責任を問われない。
しかし、リスクゼロを追い求める社会は、同時にチャレンジゼロの社会でもある。
転ぶかもしれないから自転車には乗せない。
失敗するかもしれないから挑戦させない。
危険かもしれないから外で遊ばせない。
そうして育った子どもたちが、いざ社会に出たとき、荒波の中で自分の足で立つことができるだろうか。
台風の日の登校は、確かにリスクがある。
だが、すべての困難を大人が先回りして取り除いてしまうことにも、別の種類のリスクがある。
それは、「自分で考え、自分で判断し、自分で乗り越える力」が育たないというリスクだ。
ネット批判の多くは、短期的・表面的なリスクにしか目が向いていない。
授業続行によって何かを得る可能性、生徒の内面に積み重なる経験の価値——そうした長期的・内面的な話は、炎上コメントには馴染まない。
「強い魂」とはどういうことか
古来、教育者たちは繰り返し語ってきた。
本物の強さとは、困難がないことではなく、困難の中で折れない心のことだと。
風雨の中を制服で登校した生徒たちは、何十年後かに、その日のことをどう思い出すだろうか。
「あの日、休校にしてくれれば良かったのに」と思うだろうか。
それとも、「あの日のことを、俺はちゃんと乗り越えた」という小さな誇りを胸に持つだろうか。
もちろん、実際に危険な状況で無理に登校させることは論外だ。
事故が起きれば、それは取り返しのつかない結果をもたらす。
その点において、批判派の言う「安全第一」という姿勢は正しい。
しかし、すべての台風、すべての状況において、「休校=正解・続行=アホ」と断言するのは、あまりにも単純すぎる。
批判する前に、私たちが問うべきこと
ネットで「アホ」と書き込んだ人々に、一つ問いたい。
あなた自身は、これまでの人生で、困難な状況に立ち向かった経験があるか。
逃げることも許された場面で、あえて踏み留まった経験があるか。
その経験は、あなたの中に何かを残したか。
もしその答えが「はい」であるなら、あなたはすでに知っているはずだ。
楽な道を選ばなかったことの意味を。
授業を続けた校長たちは、生徒に苦しみを与えたかったわけではない。
彼らは、安易な道を選ばなかった。
その判断が正しかったかどうかは、数年後、十数年後、その生徒たちの姿の中に答えが現れるだろう。
おわりに──多様な判断が存在すること自体の価値
休校を選んだ校長も、授業続行を選んだ校長も、どちらも生徒のことを真剣に考えていたはずだ。
ただ、その「真剣さ」の向かう先が違っただけだ。
一方は「今日の安全」を守ろうとした。
もう一方は「明日の強さ」を育てようとした。
どちらが正しいかを、第三者がインターネット越しに断言できるほど、教育は単純ではない。
そして、こうした多様な判断が存在すること自体に、実は教育的な意味があるかもしれない。
社会には、保守的な選択をする大人も、チャレンジを促す大人も、両方が必要だ。
その多様性こそが、様々な個性を持つ子どもたちに、それぞれ合った出会いをもたらすからだ。
炎上コメントは一瞬で消える。
しかし、台風の日に学んだこと、乗り越えたこと、感じたことは、その生徒の中に静かに残り続ける。
安易に誰かを「アホ」と呼ぶ前に、まず自分自身の思考の浅さを疑ってみることが、大人としての誠実さではないだろうか。
この記事は、特定の学校・校長を批判・称賛するものではなく、教育における判断の多様性と、ネット上の短絡的な批判文化について考察したものです。
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