戦後ゼロ年:1946年8月6日(火)
広島原爆投下から1年
原爆投下から1年を迎える広島市内の焼け野原を若いカップルが見詰める。復興の兆しはまだ見えていない。

(8/6/2016、東京新聞より)
原爆投下1周年の広島
原爆が落とされた午前8時15分、市民は立ち止まり、死者に1分間の黙祷を捧げた。写真は広島駅前。

(「日録20世紀1946」より)
【参考】被爆再現人形

広島 「被曝再現人形」最後の叫び
きょうで展示終了(2017年4月25日)

(4/25/2017、東京新聞夕刊より)
栗原貞子さんの詩「ヒロシマというとき」
〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ
(後略)
(広島文学資料保存の会より)


(8/6/1946、シカゴ・トリビューンより)
広島原爆機パイロット、現在は大西洋路線に
一年前の昨日、広島に歴史的な原子爆弾を投下したB-29の副操縦士、キャプテン・ボブ・ルイスは、その記念日にアメリカ海外航空(American Overseas Airlines)の旗艦機の副操縦士として初の大西洋横断飛行を行い、記念日を祝った。
同航空会社のシカゴ事務所が、平和時におけるルイス機長の新たな役割を記念日の話題として公表した。
爆撃に使用されたB-29をアメリカ本土からティニアン島まで飛行させたのもルイス機長であり、同島から「エノラ・ゲイ」の愛称で知られる大型機が、敵国に対して投下される初の原子爆弾を積んで離陸したのである。
ルイス機長はニューヨーク州ジャクソンハイツに在住している。

戦後81年 2026年8月6日付の新聞



2026年8月7日付の新聞


元本紙記者、日本軍の「地獄の牢獄」を証言
東京、8月6日(AP):
かつて上海の悪名高い「ブリッジ・ハウス(Bridge House)」監獄の第5号房で起きた凄惨な実態について、本日、極東国際軍事裁判(東京裁判)で証言が行われた。
証言したのは1941年12月に上海で日本軍に拘束されたアメリカ人新聞記者J・B・パウエル。
パウエルは、縦12フィート、横18フィート(約3.7×5.5メートル)の独房に40人以上の囚人が押し込められていたと述べた。
収容中の待遇が原因で壊疽(えそ)を患い、両足の一部を失ったパウエルは、第5号房の囚人のうち15人は非中国人で、その中には数人の女性も含まれていたと証言した。
ネズミと暮らした
「その房は1937年以来、一度も掃除された形跡がありませんでした。夜になるとネズミが囚人たちの体の上を走り回っていました。
食事は一日に小さな茶碗三杯のコメだけでした。また、赤十字からの救援物資は一度も受け取ることができませんでした」
さらにパウエルはこう続けた。
「友人がクリスマスにローストターキーを送ってくれました。しかし日本側は、『囚人たちが骨で互いを殺し合うかもしれない』という理由で、房へ持ち込むことを許しませんでした」
房には衛生設備として、蓋もない粗末な箱が一つ置かれているだけだったという。
柳条湖事件は日本の自作自演
パウエルはさらに、1931年の奉天事件(柳条湖事件)は日本側によるでっち上げであったと証言した。
証言台では椅子に支えられ、松葉杖を脇に置いた姿で、彼は、日本が中国侵略の口実とした満州鉄道爆破事件の舞台裏について語った。
「観光客」は銃を携えていた
彼は、当時勤務していた『チャイナ・ウィークリー・レビュー』および『シカゴ・トリビューン』のため、この事件を取材する目的で満州へ向かったという。
パウエルは、
「日本人の『観光客』が大挙して奉天(現在の瀋陽)へ入り込んでいた。」
と述べた。
そして爆破事件直前に彼らを観察し、
・銃を携帯していたこと
・日本の予備役兵であることを示す腕章を着けていたこと
を写真に収めたという。
事件からわずか5日後、パウエルが奉天を訪れると、日本軍はすでに市内を完全に占領しており、被告の一人である土肥原賢二中将が市長代行を務めていた。
パウエルはさらに、
「事件から一週間以内に爆破現場を調査したが、爆破があったことを示す証拠は何もなかった」
と証言した。



