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戦後ゼロ年:1945年8月29日(水)

厚木飛行場に星条旗
ハルゼー、東京湾に
歌川広重の?黒船画発見
ソ連、北海道に迫る

(8月29日付シカゴ・トリビューンより)
マッカーサーが日本へ!  ウェインライトも

厚木飛行場に星条旗 航空隊員たが掲揚
沖縄、8月29日(AP):
火曜日午後12時10分(月曜日午後10時10分、シカゴ時間)、 第5空軍無線部隊によって、最初のアメリカ国旗が征服された日本の空に掲揚された。
その部隊は“フライング・サーカス”として知られる。最初の空輸先遣隊と共に派遣された。明日到着する大部隊との連絡用に無線塔を設置する。

午前8時47分に着陸したフライング・サーカスは 4時間も経たないうちに星条旗を無線アンテナの頂上へ掲げた。 日本軍の旗は飛行場地区には掲揚されていなかった。
最高位のアメリカ人航空指揮官たちは昨日、 厚木飛行場の端にある野外司令部で 豪華な昼食(亀スープと各種サンドイッチ)を食べたと話した。
花がテーブル飾る
ジョン・H・レイキー・ジュニア大佐(バージニア州ノーフォークのベテランパイロット)は「それは、とてもすばらしいスープでもあった」と叫んだ。彼は厚木飛行場に、最初の飛行機を着陸させた人物だ。
その昼食は汚れひとつない木造の建物で提供された。 花がそのテーブルを飾っていた。食事は20名以上の アメリカ人将校たちに日本人給仕係によって提供された。日本人将校たちは隣接する部屋で食事をした。
レイキー大佐と最初の飛行機に同乗していたのは、 ジェームズ・T・ペッタス・ジュニア大佐(ミズーリ州セントルイス)、および デルバート・ウォード大佐(テキサス州サンアントニオ)。彼らは皆、 日本人の態度に驚きを表明した。
「彼らは、我々を喜ばせたいと望んでいることを示すために、誠実な最善を尽くしているように見えた」とウォード大佐は言った。
ウォードにそう思われた、日本人たちは安堵しているようだった。ただ、戦争が終わったことについて「しかし、それはまだ十分浸透していない。 彼らの国の敗北の重大さを彼らは理解するのが難しいようだった」

ペコペコせず
日本人たちは軍人らしい態度で振る舞った。きびきびと敬礼はするが、お辞儀も、ぺこぺこすることも行わない。 ほとんど握手は交わされなかった。
厚木の滑走路について、レイキー大佐は叫んだ。
「私が今まで見た中で最高の日本の製滑走路だ。B-29から 小型機まで利用できる」
明日の大規模着陸のために準備している技術者たちはほとんど修復作業を行う必要がなかった。 日本人は より大きな爆弾クレーターを埋めていて、そして修復されていないより小さな穴を赤旗で印をつけていた。
日本陸軍の全ての要員はその地域から除去されていた。その地域は武装していない海軍部隊によって警護されていた。日本人の憲兵は警棒を携行え、将校たちは伝統的な刀を携行していた。
E. K. ワーバートン(マサチューセッツ州ウェストボロー出身)ら多数の大佐たちは着陸後すぐに厚木飛行場の基地司令官になった。日本の某中将との協議中、日本人の新聞記者やカメラマンが 「ノミのように厚く」群がった、とウォード大佐は言った。

ハルゼー提督、東京湾に入る
旗艦ミズーリが巨大艦隊率いる
7,500名の空挺部隊員、きょう沖縄から飛来

東京湾、8月29日(AP):
ヒロヒト天皇の白馬に乗って東京を闊歩したいハルゼー提督は、本日、彼のアメリカ合衆国第3艦隊の先頭に立って東京湾に入った。彼の旗艦、強大な45,000トンの戦艦ミズーリ(日曜日に降伏文書調印予定)は、午前7時08分(火曜日午後5時08分、シカゴ時間)に湾に入った。

マッカーサー将軍がマニラから沖縄に到着した。彼のは木曜日、日本への勝利の入国を果たす。マッカーサーは、木曜日早朝(水曜日夜、シカゴ時間)に沖縄から離陸する予定。7500名のアメリカ占領軍部隊と共に飛行し、厚木飛行場(東京の南西18マイル)へ向かう。沖縄において、彼はこれら部隊の搭乗を見守った。

強大な海上及び空中輸送部隊が大規模な占領上陸のために待機する中、ハルゼーはミズーリに乗って東京湾内に入った。大艦隊は遠くアリューシャン列島からも集結している。
占領軍の上陸は、木曜日午前6時(水曜日午後4時、シカゴ時間)に開始予定。最初の上陸部隊の中には、湾内の横須賀海軍基地を守る三つの島々への上陸も含まれる。
相模湾から移動
ミズーリは、大艦隊の主力艦の中で最初に相模湾から三浦半島周辺、そして浦賀水道を通過し、東京湾へ入った。艦隊は二日間、東京の南30マイルの相模湾に投錨していた。
ミズーリを至近で追っていたのは、三隻の護衛駆逐艦、ニコラス、オバノン、およびテイラー。三艦は、開戦初期以来の英雄的な行動に対する大統領部隊感状を保持している。
戦艦アイオワおよびサウスダコタが続いた。サウスダコタは、ニミッツ提督がここにいる間(日曜日の正式な調印式典にアメリカ合衆国を代表して署名する)、彼の旗艦として任務に就く。
サウスダコタに随伴していたのは、駆逐艦ブキャナン、ランズダウンおよびラードナー。
巨大な海軍のパレードにおいて、英国戦艦デューク・オブ・ヨーク(ブルース・フレイザー提督の旗艦)が続いた。彼女に随伴していたのは二隻の英国駆逐艦であった。

戦闘旗を掲揚
軍艦は巨大な戦闘旗を掲揚し、そして乗組員は戦闘服姿で戦闘配置に就いていた。
ミズーリは、ほんの数週間前まで116門の大口径海岸砲によって防護されていた水域へ進入した。日本の砲兵隊は降伏条項の下で無力化されていた。軍艦は速度を10ノットから減速し、そして6ノットで汽走した。
ミズーリを先頭とする大きな軍艦は、横浜沖(爆撃で破壊された東京の港)に投錨した。遠方に、建造物の輪郭が現れた。おそらく約20マイル離れた東京のそれであった。
第3艦隊の部隊は、オスカー・C・バジャー少将の任務部隊第31群の点滅する灯りによって迎えられた、バジャーは彼らより先に(火曜日に)到着していた。
艦隊は最終区間の、横須賀沖の投錨地までの航行のために速度を上げた。

コレヒドールの英雄、降伏式に臨む
マニラ、8月28日(AP):
コレヒドール島降伏後、日本人によって投獄されていたアメリカの英雄、ジョナサン・ウェインライト中将が、マッカーサー将軍からの招待を受け、日本が正式に降伏する東京湾での式典に立ち会うことになった。ウェインライトは昨日、満州の捕虜収容所から飛行機で重慶に到着した。
ウェインライトが戦艦ミズーリ号に乗船して東京湾にいることは、1942年初頭にフィリピンで米軍の降伏文書に署名することを強いられた彼の辛い経験に劇的なコントラストを与えるだろう。

明日 重慶離れる
コレヒドールの英雄は、明日飛行機で重慶を離れ、マニラに向かう予定。彼は、参謀長のルイス・C・ビービー准将、補佐官のジョン・フージ中尉、トーマス・ドーズリー中尉、そしてコレヒドールで捕らえられた彼の運転手、ジョン・キャロル軍曹を伴う。
ウェインライトはマッカーサーに宛てたメッセージでこう述べた。
「このグループは皆、あの悲劇的な日に私と一緒に降伏しました。そして、私たちが日本の降伏を受け入れる際に彼らがそこにいることを特に願っています」

日本軍パイロットが艦隊を海峡に導く

伝説の撃墜王、東京で無事
伝説的な海兵隊の撃墜王、グレゴリー(パピー)・ボイントン少佐は、1944年1月3日、ラバウル上空で日本機との空中戦で姿を消し、戦死したと推定されていた。しかし本日、彼が東京で生存していることがわかった。
このニュースは、東京湾に停泊する米艦 アンコンからAP通信を通じて伝えられた。

この情報は、第3艦隊の米巡洋艦サン・ファン から送られた短い電文の中に含まれていたもので、情報源については明らかにされていない。
「必ず戻る」と約束
名誉勲章を授与された英雄の生存は艦隊を沸き立たせた。しかし彼の仲間の海兵隊パイロットたちにとって、それはさほど驚きではなかった。シカゴ出身のある隊員は、ボイントンが死んだとは決して信じていなかったのだ。
「パピー」ボイントンは決して死ぬような男ではない、と皆が思っていた。つい最近も、彼が行方不明になる前に残した言葉を思い出したという。
「必ず戻る」

6219人の捕虜、自由目前
(ロバート・クロミー特派員)
第5空軍司令部・沖縄、8月28日:
第5空軍の航空技師デルバート・R・ワード大佐(テキサス州サンアントニオ出身)は、本日、東京近郊の厚木飛行場から沖縄に戻り、捕虜送還計画の概要を持ち帰った。
日本側は米国代表団に対し、厚木から半径10マイル以内の収容所に 連合軍軍人6125人と民間人94人 が収容されていると伝えた。ワード大佐によれば、その大半はアメリカ人であり、軍人のうち 417人は病院で治療中だという。
日本側は、捕虜たちを木曜日にトラックで飛行場へ移送し、そこから沖縄かマニラへ即時送還すると述べた。

5,000人が病気
東京湾米艦隊、8月28日(AP):
国際赤十字のスイス代表は本日、オスカー・バジャー海軍少将に対し、日本に収容されている34,000人のアメリカ人捕虜のうち約5,000人が重病状態であると報告した。赤痢が捕虜の間で広く蔓延しているという。
代表は、海軍が捕虜用の食糧、特に牛乳や砂糖の供給に備えていることも伝えられた。
海軍はすでに救出・送還の完全な計画を用意しており、海兵隊が上陸次第、横須賀近郊の収容所に直ちに到達し、捕虜たちを救出する予定。
捕虜たち、命令拒否
サンフランシスコ、8月28日(AP):
日本にいる捕虜や民間人抑留者は、日本の収容所当局の命令に従うことを拒否し始めている、と日本政府は本日マッカーサー将軍に報告した。
日本側は、連合国側の指導者に対して捕虜に秩序維持を命じるよう要請した。
報告によれば、神戸の収容所にいる捕虜たちは、当局の命令に従うことを拒み、小集団で逃げ出しては倉庫を襲い、缶詰食料などを奪い、民間人の住宅へ入り込んで女性や少女を困らせるなどの行動を取っているという。

記者が見た灰の中から立ち上がる東京
(アーサー・ヴェイシー特派員)
東京、8月28日:
過去6カ月間の大空襲で家を失った東京の人々のほとんどが、灰の中から家を再建している。
焦げた木材と錆びたトタン板でできた掘っ立て小屋が、重慶やマニラでそうだったように、灰の中に群れをなしている。マニラでも、日本が怒涛の攻撃を始めた時、爆撃によって完全に焼き払われた。
重慶やマニラもかつては木の街だった。そしてそれらの都市のように、東京もほぼ完全に破壊された。日本軍がマニラに再び火をつける機会を得なかったため、マニラは一部だけが焼け残った。

残されたのは「島々」だけ
いま、東京から横浜にかけて30マイルにわたる地域には、海から見て無傷で残っている家屋や商店、工場の小さな「島」だけが点在している。
その「島」の一つが皇居だ。蓮の葉に覆われた堀と高い土塁に囲まれており、これは爆撃機を寄せ付けなかったが、御所内をかすめる火災は燃え上がって神聖な建造物を焼いてしまった。宮殿敷地内にある建物の群れの一つでさえ、直接の被弾で破壊された。
もう一つの「島」は、鉄道駅を囲み、新しい東京、日本のミシガン大通りの中心を形成する近代的なビジネスビルが立ち並ぶ街区だ。アメリカ人に最もよく知られているかもしれない帝国ホテルでさえ、内部は破壊されていた。

ペリー来訪の日本絵画 シカゴ人が所有
アメリカ軍艦隊の東京湾進入のニュース写真は歴史的な興味を呼び起こす。シカゴの弁護士が所有する貴重な水彩画は1854年、ペリーの黒船艦隊のフリゲート艦2隻が横浜港に投錨している様子を描いている。

著名な日本人芸術家・広重(ラフカディオ・ハーンによって「雨、霧、そして雪の詩人」と描写された)の作といわれる。現存が知られている10または11点しかない彼の水彩画のうちの一点であり、そして歴史的主题を描いた唯一の一点である。
フリゲート艦は全ての帆を畳んだ状態で、一隻が発砲しており、二隻の連絡用ギグ(短艇)が旗艦から他の艦隊へ向かう途中である。
この絵は、三年前に、東洋美術商のS. H. モアによって、ウォルフに贈られた。ウォルフは、その歴史的価値を重んじ、ワシントンD.C.のスミソニアン協会への寄贈を検討中。
ウォルフは、第一次世界大戦において、マッカーサー将軍の参謀長であり、中佐の階級であった。

マンガ:シャワー室へどうぞ(軍国主義者どもは引っ込め

・日本放送協会、米対日放送への妨害電波停止
(「日録20世紀1945」講談社より)

・昨日、厚木へ先遣隊。進駐軍は五十万
・満州は中国に主権
(8/29/1945、中国新聞)

【中国】
毛沢東、重慶入り 蒋介石と会談

中国、重慶、8月28日(AP):
中国共産党の指導者・毛沢東 が本日、蒋介石総帥との会談のために重慶に到着した。内戦を回避し、そしておそらくは中国における連立政府の樹立を促進するためとみられる。
毛沢東はパトリック・J・ハーリー少将(中国駐在美国大使)とともに、飛行機で到着した。ハーリーは昨日、共産党指導者を迎え、身の安全を保証するため延安(共産党の首都)へ飛んだ。
共産党執行委員会は即時の連立政府樹立と、国民議会選挙を要求した。そして、そのために蒋介石の国民党に協力する意思があると伝えた。

【アジア・太平洋】
南雲中将ら4人、サイパンで死亡

真珠湾、8月28日:
4人の日本軍幹部が今日、サイパン占領中に悲劇的な死を遂げたことが初めて公表された。敵の将官4人のうち2人は、真珠湾とミッドウェー海戦で日本海軍艦隊の指揮を執った提督、そして2人は将軍だった。4人全員が伝統的な日本式のファッション、すなわち自死を選んだ。そのうちの一人は、副官が銃で撃ったとされている。

4人の名
その4人とは、真珠湾攻撃とミッドウェー海戦で艦隊の指揮を執った南雲忠一中将、サイパンで日本軍基地の指揮官だった辻村武久少将、マリアナの守備隊の指揮官で、以前ニミッツ提督の発表で死亡が伝えられていた斉藤義次中将、そして加嶋三郎少将である。
南雲と辻村はかつて同じ部隊に所属しており、アメリカ海軍がサイパン島に上陸する直前の7月7日、彼らは半時間の協議を行った。彼らはその後、敵の反撃を打ち破ろうと試みた。自殺現場は、マープル岬から日本の民間人たちが飛び込んだマタウサ村の近くの海辺の岩だった。
副官によって撃たれた
斉藤は、部隊が反撃に失敗した後、マリアナの山に撤退したと報告された。彼の死亡場所は、ヒラキ村の東にある丘の麓だった。斉藤は要塞を築いて、副官に自分を撃つよう指示することで切腹を試みたが、副官が持っていた拳銃ではうまくいかなかったため、斉藤自身が副官の銃で自分を撃った。
4人目の死者、加嶋少将は、サイパンを訪れていた際に侵攻に遭い、会議に出席していたようだ。彼の死は7月10日、4人の米陸軍機関銃班の隊員が、丘の上にある陣地から日本のいくつかの陣地に向かって発砲していた時に明らかになった。彼らは数時間後に再び火器を撃ち始め、その後、日本兵の遺体を4体発見した。そのうちの1体が加嶋だった。

幽霊船ヒューストンの生存者300人無事
ワシントンD.C.、8月28日(AP):
一人のアメリカ人将校が、タイのジャングルから今日、1942年に消息を絶った重巡洋艦ヒューストンの生存者300人が日本の捕虜収容所にいるという知らせをもたらした。
ヒューストンは、1942年2月27日のジャワ海戦で日本の太平洋への進軍を阻止しようとした連合軍海軍部隊の一部であり、激しい打撃を受けた。同巡洋艦は、ジャワとスマトラの間にあるスンダ海峡を突破しようとした翌日の夜に姿を消した。
ヒューストン級の巡洋艦は、約1,000人の将校と兵士を乗せていた。

タイにいる地下活動部隊と協力していたニコル・スミス中佐から、ヒューストン乗組員の一部が救助されたという最初の公式報告が今日入った。スミス中佐は戦略情報局のために働いていた。スミスは生存者の人数はおおよそだと述べたが、「ヒューストンの乗組員の親族であれば、誰でも非常に楽観的になれる」と付け加えた。

千島列島のソ連占拠 米議員、調査要求
さらに3つの島占拠

ロンドン、8月28日(AP):
ロシア軍の占領部隊が日本本土に向かって進攻する中、ソ連国防省は今日、千島列島の3つの島をさらに占拠し、375マイルにわたる水路を完了したと発表した。
プーカエフ大将率いるソ連極東第2軍による樺太全体の占領は、日本の北海道からわずか26マイルの地点までソ連軍を到達させた。同時期に水陸両用部隊が、南千島にある占守島(シュムシュ)、得撫島(ウルップ)、そして択捉島(Eエトロフ)を占拠した。
これで北海道占領へ向け残る島は残り一つとわずかなわずかな岩礁だけとなった。

(ウィリアム・ストランド記者)
ワシントン、8月28日:
日本の千島列島はアラスカの海岸からわずか750マイルの地点にあるため、外交・軍事的に注視されていることが今日明らかになった。
ソ連の公報は、この戦略的な列島における数少ない上陸地点について、一週間以上前に独裁者スターリンの空挺部隊が上陸を開始したと簡単に報じただけだ。連合国の軍事作戦や、ロシアの敵国領土への侵攻に関する合意については、これまで一切公表されていない。
シェイファー下院議員(共和党、ミシガン州)は、ソ連の動きが連合国間の秘密条約に基づくものかどうかを判断するため、議会での調査を要求するつもりだと述べた。彼は、日本軍の正式な降伏に向けてアメリカ軍が最終的な準備を進めている時期に、ソ連が列島への進攻を決めたことを指摘した。
「理由を知りたい」
「議会によって太平洋における戦後政策が明確に確立されるまで、このような動きはいかなる進展も、間違いなく我々政府の懸念事項となる。千島列島は、アリューシャン列島からの軍用機の飛行距離からほんの少ししか離れていない。我々は、いったい何の権利でスターリンがこれらの島々を占領し始めたのかを知るべきだ」と彼は述べた。
最近の海軍省の報告書は、アメリカが防衛のために太平洋の戦略的な島々を完全に所有するよう要求している。この委員会は、アリューシャン列島と千島列島に要塞を建設し、ハワイ諸島、マリアナ諸島、マーシャル諸島、アドミラルティ諸島、サモアを経て南へ伸びる防護帯の北側の側面を確保するよう促した。
千島列島における最初のロシア空挺作戦は、日露戦争中に日本が1905年にロシアから奪い取った歴史的な黄海の港、大連と旅順の港をソ連軍が占領するのと同時に実行された。

【アメリカ】
マンガ:隣人たち

「ママ、どうも体調が良くないの。私たち、失われた時間を取り戻そうとしているんだけど。彼ったら2年間もソーダファウンテンを見ていなかったんですって」



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