戦後ゼロ年:1945年8月17日(金)
占領軍、軍国狂信者の抵抗懸念
日本軍、中国に降伏へ
日本軍捕虜となった少女、犬・猫食べて生還
(8月17日付シカゴ・トリビューンより)
マッカーサー、日本に猶予
マニラ会議 敵の嘆願で延期
東京降伏後、連合軍輸送船爆撃される
「戦闘が終わるまで船遠ざけて」日本求める

日本、連合軍の輸送船攻撃

この地図は、昨日の対日ロシア戦争の進展、連合軍艦船に対する日本軍の攻撃地点、そして「停戦」命令を戦線に伝えに飛ぶ日本の皇族の一行がたどるルートを示している。
東京を偵察飛行
沖縄発8月16日(AP):
無抵抗の東京領空を8機の偵察機が飛行し、空港施設の撮影に成功。日本側の航空活動は完全に停止していた。
裕仁天皇、皇后の叔父を和平内閣総理大臣に任命
AP:
FCC(連邦通信委員会)が傍受した同盟通信による昨夜の報道によると、東久邇宮稔彦王率いる新内閣は日本時間金曜日朝、東京の皇居で宣誓式を行った。任命式の後、新大臣たちは首相官邸に戻り初会議を開いた。FCC監視官によれば、同盟通信は任命式の正確な時刻を説明なく削除していた。

近衛文麿含む内閣
東久邇宮が中国攻撃時の首相であった近衛文麿公爵を含む内閣を完成させ、東久邇宮自身が首相職に加え陸軍大臣も兼任すると伝えられている。裕仁天皇は従兄弟であり皇后の叔父でもある同宮に新政府の組閣を要請した。
近衛公爵は無任所大臣に、元外務大臣の重光葵は外務大臣に再任され、さらに大東亜大臣も兼任すると追加された。後の同盟通信報道では、近衛が副総理に就任し、首相選出は慣例の助言者承認を経ず天皇単独で決定された。
日本、原爆対応を転換
サンフランシスコ発8月16日(AP):
日本は原子爆弾に対する姿勢を急転換し、連合国による開発・使用を非難していた態度から、その科学的成果を称賛する声明を発表した。

東京の「読売報知」はラジオ放送で次のように報じた。
「原子爆弾を使用した者を責めるよりも、この兵器を生み出した科学の優位性を認めることが武士道精神に適う。我々の無力を自省すべきだ。日本人は現実を直視しなければならない。勝利にも敗北にも理由がある。我々は自らの限界を認識できなかった」
同盟通信は「国民は深い悲しみの中にあるが、降伏への不満は見せず、平常通り冷静に行動している」と伝えた。天皇の終戦決定は「従うべき至高の命令」と受け止められており、各地で暴動等の報告はないという。
「日本は原爆前に降伏を決定していた」ランザ大佐
空襲と艦隊が決定的な要因
日本が降伏したのは、原爆の驚くべき効果と、ソ連の参戦が相まってのことだという一般的な意見がある。最初の原爆は8月6日に投下され、ソ連は8日に宣戦布告し、2番目の原爆は9日に投下され、そして日本が降伏を申し出たのは10日だった。コンラッド・H・ランザ大佐によると、これらの密接に関連した出来事が唯一の原因であると断定することはできない。事実がすべて知られるまでには、まだ時間がかかるだろう。現在の証拠が示唆しているのは、原爆とソ連の参戦は、数日中にはいずれにせよ来るであろう終わりを単に早めたに過ぎないということだ。日本は、早くも6月28日には降伏を決定していたことが示されている。

その日、日本の首相は元老たちを招集した。彼は、ソ連が戦争に参戦しようとしているという兆候があると報告した。ソ連は、1946年4月5日まで有効期限が切れない不可侵条約を日本と結んでいた。これには、1年前に通告すれば破棄できるという条項が含まれていた。ソ連はこの1年間の通告をこの年の4月13日に行い、その時点で条約の有効期間は1年未満だった。この破棄の言葉は、ソ連が1年待たないことが明確であることを示していた。
モスクワへの提案
この状況を鑑み、元老たちは降伏が必要であることに同意。降伏案を提出することが決定された。これはモスクワに送られ、ポツダム会議で検討されるようロシア政府に要請された。提示された条件は以下の通り。
①天皇が政府の首長の座に留まること。
②日本が本土の島々に加えて、連合国によって承認される可能性のある限定的な陸軍と海軍を維持すること。
③日本が、本土の島々に加えて、朝鮮と台湾を維持すること。
④連合国が指定した戦犯が、裁判の必要を避けるために自殺すること。
現在知られているように、日本は満州の保持を要求しなかった。日本は、樺太(サハリン)の北半分と千島列島、そして琉球列島を保持するつもりだったと推定されている。
日本がその提案に対して受け取った唯一の返答は、7月26日のポツダム宣言であり、無条件降伏、さもなければ「迅速かつ完全な破壊」を求めていた。

日本は米国民の世論に頼った
日本は、米国での世論が日本を助けるかもしれないと考えたようで、降伏提案を放送で流すという予防策を講じた。そのため、その降伏書簡がワシントンに届く前に、誰もがそのことを知っていた。これにより、連合国は公然と交渉を行わざるを得なかった。日本の申し出は無条件で受け入れられたが、連合国は天皇の地位を維持させることに合意した。
2つの原爆の効果は部分的にしか知られていない。広島と長崎がアメリカ人によって立ち入り調査され、詳細な調査が行われるまで待つ必要があるだろう。達成された破壊は恐ろしく、広大だった。それは元老たちに確かに影響を与えた。
空軍がやった
どうやら、日本の降伏の主な理由は、6月中旬以降、空軍によって与えられた尋常ではない懲罰であったようだ。
この空と海からの攻撃は、アメリカが硫黄島、そして後に沖縄を占領したことによって可能になった。これらの2つの島が、日本への攻撃に必要な基地を提供した。これらの島の陥落が、日本の没落を確実にした決定的な打撃だった。硫黄島と沖縄で戦い、亡くなった人々にすべての栄誉を。
占領軍への軍国狂信的な抵抗懸念
日本進駐時の問題予見
(パーシー・ホワイティング元東京特派員、日本在住38年)
天皇の武装解除命令は、指揮官たちがその命令が本当に天皇からのものだと確認すれば、ほぼ確実にどこにいる日本軍も従うだろう。しかし、占領軍が何らかの問題に遭遇する可能性は完全には排除できない。
天皇への軍の不服従の最近の事例は、1936年2月26日に発生した閣僚ら要人殺害事件(鈴木貫太郎首相も瀕死の重傷を負った)だ。この時、若手将校らと東京駐屯部隊1300名は都心に立てこもり、天皇は兵舎へ帰還するよう命じた。

「反逆者」として糾弾
将校らはこれを拒否。「反逆者」と宣告された後、兵士たちが離反。首謀者たちは逮捕・処刑された(殺害罪ではなく「天皇への不服従」が罪状)。この小規模反乱は天皇ではなく内閣・側近への反抗だった。
明治天皇統治初期(近代化の過渡期で不安定な時代)にも武力反乱が発生し、武力鎮圧されている。現在の新政府も緊張を認識しており、厳格な服従を徹底させるだろう。
米軍への攻撃も
本土では占領軍・関係者への散発的な暴力事件が起こりうる。日本は2600年の歴史で最も屈辱的な状況にあり、一部過激派は「天皇が悪しき助言者に囲まれている」として(1936年の暗殺者同様)、米軍要員や日本官僚を襲撃する可能性がある。
東久邇宮稔彦王の首相就任は、その威信で国内外の軍民を統制できると期待されての人事だ。彼は皇室随一の有能かつ強力な人物である。
岡本清福中将が自決
ベルン(スイス)8月16日(AP):
日本公使館は、1943年からスイス駐在武官を務めていた岡本清福中将が、天皇への最期の敬意を表した後、本日自決したと発表した。
公使館の声明によれば、「日本の現在の困難な状況に対する軍人としての深い責任感が、彼の決断につながった」という。

岡本中将(55歳)は、以前シンガポールで参謀副長を務めていた。1月からはチューリヒで療養中であった。
東京では昨日、阿南惟幾陸軍大臣の自決が報じられた。
マンガ:支払い

米国に到着した日本人捕虜

日本に向かう米国艦隊

(ww2databaseより)
・鈴木内閣総辞職。
(8/17/1945、中国新聞より)
【中国】
中国戦線の終結と国共内戦の萌芽
日本軍、蒋介石へ降伏受諾伝達
重慶、8月17日(AP)
信頼できる情報によると、中国派遣軍総司令官・岡村寧次大将は蒋介石総統に対し、日本軍の降伏手配に関する中国側条件を受諾する旨を伝達した。
日本軍は首都・南京から主力部隊を撤退させ、中国国府軍到着まで治安維持のため小部隊を残留。
岡村は「連合国正式代表へのみ武装解除」を条件に提示(共産軍への武器引き渡し防止)。
米国の介入
パトリック・ハーリー米大使が延安へ飛び、毛沢東に重慶来訪を要請する予定。国共内戦回避を目的とした調停工作が進行中。
共産軍の動向
朱德司令官率いる共産軍は黄河以北で活動継続。北平(北京)周辺を包囲し、上海への浸透も報告されている。蒋介石の「共産軍軍事禁止令」を無視している。
対日対応
共産軍は江西省・廬山に代表を派遣し、中国軍司令官・何応欽から降伏処理指示を受ける予定。
レンドリース停止問題
朱德は「蒋介石への武器供与停止」を米国に要求。米政府は国府軍支援継続の方針だが、内戦勃発リスクを警戒している。
【ヨーロッパ】
祝日本敗戦! エッフェル塔ライトアップ

【アメリカ】
日本軍捕虜となった少女、猫・犬食べ生き延びる
戦争の3年2カ月の間、配給制度はマニラの20歳のパティ・ジョーン・クロフトさんにとって問題ではなかった。その間、彼女は日本軍の捕虜として生き延びるため、茹でた猫や犬、昆虫、ユリの球根などを食べていた。

シカゴの親戚であるW・G・フロイデンベルグ夫妻(シェリダン通り5059番地)を訪れていたクロフトさんは、自分と母親、18歳の弟が21石の腕時計を米と交換したり、アメリカ国旗を隠したりした収容所時代の体験を語った。その国旗は、1945年2月に第11空挺師団によって解放されたロス・バニョス収容所で掲げられた。解放は、日本軍による処刑が予定されていた前日だった。
クロフトさんは、ハワイ・ヒッカム飛行場の監督官A・J・クロフトの娘で、1歳からフィリピンに住んでいた。今後はアメリカに留まり大学に通う予定。
