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戦後ゼロ年:1946年3月27日(水)

広島市中心部に小麦畑
中国新聞部数20万部超える

(3/27/1946、シカゴ・トリビューンより)
小麦畑は広島の生命の象徴

(ウォルター・シモンズ特派員)
広島、3月26日:
この爆撃で破壊された街の中心部に、新しい小麦が生い茂っている。居間の絨毯ほどの広さの一画だ。
それが広島の人々の話題となっている。松葉杖をついた者も含め、日本人が瓦礫の中を何マイルも歩いてそれを見に来る。立ち止まり、眺め、語り合い、やがて郊外へと戻り、他の者を連れてまた見に来る。
「こういうことなんです」と語るのは、広島の中国新聞(爆撃は受けたが、廃刊にはならなかった)の副編集長、加藤新一氏である。「この小麦は、今まさに復興しつつある新しい広島の象徴です。昨年8月に貴国の原子爆弾が落とされた後、科学者の中には、この土壌では75年間は何も育たないと言う者もいました。民衆のほとんどはその話を信じていました。しかし、一人だけ懐疑的な男がいました。彼は骨折って郊外の土地を開墾したのです」

復興への希望
繰り返し広島を訪れる人々は、この街の活力を示す他の兆候にも気づいている。ここ1カ月の間に、傷つき足を引きずる何千人もの住民が戻り、瓦礫の中で整然とした木造家屋を建て始めている。「どこで材木や釘を調達しているのか、誰も知らない」と、戦前にロサンゼルスで日本語新聞を編集していた加藤氏はため息をつく。東京では最近、復興が事実上停滞しているが、広島では前進を続けている。
「我々の新聞の発行部数は20万を超えました」と加藤氏は誇らしげに語る。「最大の問題は用紙割り当てです。今では従業員も、原爆投下前と同じ35人になり、最新の輪転機の復旧に40万円(2万5千ドル)を支払っています」
映画館も再開
「広島にはすでにデパートが1軒開店しており、市電もだいぶ良くなってきました。数日後には映画館も開館します」
上空をイギリスのモスキート機がスピットファイアに追われて飛び去る。広島はイギリス軍の占領地域であり、大きなつばの広い帽子をかぶったオーストラリア兵が街を歩いている。
「市の中心部が再建されていないのは本当に残念です」と加藤氏は言う。彼は「それはなぜですか」と尋ねた。
「かつてそこに住んでいた人々は、ほとんど全員が亡くなっています」と彼は言った。「戻ってくる人がいないのです」

【参考】加藤新一氏(82年、81歳で死去)
一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって(川井龍一氏)
「中国新聞本社は、爆心地から東に約900メートル。
加藤さんは『断末魔の声をかけられるのを耳にしながら(ゆるしてください。どうにもならぬのです)と心に詫びつつ』正午本社にたどり着いた。
輪転機2台を据えた鉄筋3階の本社も、同盟通信広島支社や広島中央放送局(NHK)の分室などが入っていた11階の新館も『外部こそ、そのままだが、屋内は轟轟(ごうごう)と音を立てて燃えている』。それを見て、加藤さんは『万事休す』と思った。」
ディスカバー・ニッケイより)


中国新聞

1945 原爆と中国新聞

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