【映画感想文】容疑者、ホアキン・フェニックス(原題:I'm Still Here)
最近はケイシー・アフレックにハマっている私です。
そんな中、この映画を観て色々と思うことがあったので、自分なりにまとめてみました。
あまりまとまりきっていないところや、ごちゃごちゃしているところもありますが、大目に見ていただけましたら幸いです。
あくまでも、個人的な考えになります。
基本情報

🎬容疑者、ホアキン・フェニックス
(原題:I'm Still Here)
公開年:2010年
監督:ケイシー・アフレック
脚本・制作:ケイシー・アフレック、ホアキン・フェニックス
主演:ホアキン・フェニックス
あらすじ
2008年末。ホアキン・フェニックスが俳優引退とラッパー転向を宣言し、突如として表舞台から姿を消した。その後のホアキンは見る影もなく激太りし、長いひげは生やし放題、挙動不審で会話すらままならない。その姿にファンや友人たちも心配していたが…。(U-NEXTより抜粋)
モキュメンタリーという形式である必要性
この作品を語るのに度々耳にするのは、
モキュメンタリーにする必要はあったのか
ということ。
周りを巻き込んでまでこの映画を撮る必要はあったのか。
例えば、フィクションでも「有名俳優が、突然俳優を引退し、ラッパーになる」という設定で映画を作ることは出来ると思います。
ではなぜ、モキュメンタリーにしたのか。
その点を自分なりに考えてみました。
フィクションでは描写出来ないリアルさ
有名人が、俳優を引退して違うことをやります、と言った時の世間のリアルな反応。
その反応に対する、俳優本人の感情。
実際に本編で、ホアキン・フェニックスが
「俳優やめてラッパーになる」
と、宣言し行動に移した時、周りはどう反応したのか。
俳優仲間は、ホアキンを心配して会いに来ました。
その時にホアキンにかけた言葉もとても印象的でした。
一方メディアは、ホアキンのラッパー転向を面白おかしく報じていました。本気なのか?ヤラセではないか?ホアキンの容姿についても好き勝手に書き立てていました。
観客も、面白半分でライブを見に来たり、遠慮なくホアキンにスマホのカメラを向けたりとやりたい放題。
観客やメディアの視線そのものを描いていました。
フィクションでも、そういう事を想像して描くことは出来ますが、やはり生の反応のリアルさは比にならないと思います。
観客を当事者にする必要があった
フィクションは所詮作り物なので、私たち観客はあくまでもエンタメとして、他人事のように観ると思います。
しかし、それが実際に起こった事となると、私たち観客も完全に無関係ではなくなります。
当時、実際に騙された人からすれば、「どうしてこんな事をしたんだ?」「騙す必要はあったのか」「こんな方法じゃなくても良かったんじゃない?」など、自然とそういう事を考えると思います。
もしフィクションであれば、そんな事を考える人はほぼいないのではないか。
聴衆やメディアは有名人に対して、好き勝手に面白おかしく言いますが、言われた方は確実に傷付いている。
画面の中でしか見たことが無く、彼らも私たちと同じ人間であるという認識が起きにくい。
だけれど、彼らはちゃんと人間であり、心を持っているから、酷いことを言われれば傷付くのは当たり前。
本編でも、メディアや聴衆に好き勝手に言われ、ホアキンが自暴自棄になっていく描写がありました。
あくまでもフェイクですが、フェイクでも少なからず傷付くと思います。だとしたら、フェイクではなく本当であったら、どれ程の傷を負うのか。
当時実際にホアキンのニュースを見て好き勝手言っていた人達が、この映画を観ることによって、自分たちがどれだけ酷いことをしたのかを知って欲しかったのかもしれない。
この映画にはそういう問いかけも含まれているように感じました。
ドキュメンタリーでは出来ない描写
では、モキュメンタリーではなく、ドキュメンタリーだとどうか。
それも出来ないと思います。
ドキュメンタリーにするには、描写が尖りすぎている。
フェイクだからこそ、少し汚い描写であったり、ホアキンがどんどんボロボロになっていく姿を映せたのかな、とも思います。
そもそも、このテーマを純粋なドキュメンタリーとして成立させること自体が難しかったのかもしれません。
この映画の本質とは
嘘か真実かは本質ではない
この映画のキャッチコピーとして、「騙された」という言葉をよく聞きます。
でもケイシーとホアキン2人にとって、これが嘘なのか真実なのかは、それほど重要ではなかったのではないかと思います。
だから、最初から最後まで嘘なのか真実なのかを分からなくした。
なぜなら、この映画の本質はそこではないから。
フェイク公表のタイミング
当時、フェイクであることを公表したのは、映画が公開される直前だったようですが、
観た人が「騙された」だけで終わらないようにしたかったのではないか、と私は思います。
もちろん、倫理的な配慮だったり、法的な事情だったり、マーケティングだった可能性もあるとは思いますが、作品のテーマを考えてもらうためだった可能性もあるのではないかと感じました。
そもそも、2人は何を伝えたかったのか
個人的には、下の2つだと思いました。
「人間が世間に晒され続けた時、どう変わっていくのか」
「有名人を消費する観客への問いかけ」
邦題「容疑者、ホアキン・フェニックス」について
この邦題ですが、私は映画のテーマからはズレているのではないかと思います。
今まで書いてきたように、「有名人を消費する観客への問いかけ」だとすれば、この邦題はまさしく面白おかしく書き立てているものであり、この映画の本質ではなく、「真実か嘘か」に焦点を当ててしまっているように感じます。
結局のところ、この邦題や、今の世間の在り方を考えると、さして何かが変わったわけではなく、人間というのはそういう生き物なんだろうなぁ、と思います。
それでも、この映画を観て、気をつけようとか、考え方が変わった人も数人いることを考えれば、この映画が作られた意味もあるのではないか。
原題「I’m Still Here」について
I'm Still Here=私はここにいる
主語も目的語も曖昧であり、「俳優として」なのか「1人の人間として」なのか「世間に対して」なのか「自分自身に対して」なのか。
解釈の仕方はいくらでもあると思います。
その中でも私は、このように受け取りました。
「俺は1人の人間として、ここにいる。俳優でもラッパーでもなく、何者でもないただの人間として」
ただの感想
個人的には、モキュメンタリーとして、完成度は高いと感じました。
トップ俳優がラッパーに転向し、悩みや迷い、怒りなど様々な感情があって、だんだん余裕が無くなっていくところや、人間関係が崩れていくところがとてもリアルで、辛かったです。
ラストシーンもなんとも言えない、心に刺さる終わり方だったなぁ、と思います。
ケイシー、人間の内面を描くのが上手い。
ホアキン、人間の内面を演じるのが上手い。
結局のところ、どこまでが嘘でどこまでが本当なのかは分かりません。
でも、あれほどに衆目に晒されたら、本当でも嘘でも精神がもの凄く削られるのではないかと思います。演じる方はもちろん、撮ってる方も。
あの状態を2年間も続けた、ケイシーとホアキンの精神力は尋常じゃない。
でも、周りを巻き込むのは良くないと思います。
そういうこともあり、なかなか評価の付けにくい映画だと思いました。
まとめ
結局、私の考えがケイシーやホアキンの意図と一致しているかは分かりません。
それでも、この映画は「なぜモキュメンタリーだったのか」「有名人とは何か」「人間とは何か」をここまで考えさせてくれました。
私にとってこの映画は、「人間の在り方」や「私たち観客の有名人への反応」について問いを残す映画だったように思います。
