見出し画像

江戸の夜、その影を追う

気づけば、陣内は冷たい石畳の上に立っていた。
吐く息が白い。先ほどまでの寒さとは違っていた質が違う。
耳を澄ますと、人の気配はあるのに、不思議なほど静かだ。

見上げると、高い塀が連なっている。
月明かりに浮かぶ瓦屋根――どうやら武家屋敷らしい。

その時だった。
屋根の上を、何かが滑るように移動した。

音はしない。
影だけが、月と月の間を縫うように進んでいく。

「……人、か?」

思わずそう呟いた瞬間、影は消えた。
追おうとしたが、足が動かない。
いや、動かないのではない。
――追ってはいけない、と空気が語っていた。

やがて夜が明け、町に人の声が戻る。

「聞いたか? 昨夜も出たらしいぜ」
「今度はどこの屋敷だ?」
「ありがたい話だなぁ」

誰も声を潜めてはいない。
怒りも、恐れもない。
そこにあるのは、奇妙な安堵と、どこか楽しげな噂話。

盗みがあったはずだ。
だが、被害を嘆く声は聞こえない。

陣内は胸の奥に、小さな違和感を覚えた。

――法は破られている。
――だが、誰も裁こうとはしていない。

「これは……ただの盗みじゃないな」

誰に言うでもなく、そう呟いた時、
陣内の脳裏に一つの言葉が浮かんだ。

義賊。

だが同時に、もう一つの問いが残った。

なぜ人は、
正しさよりも、救いを選ぶのだろうか。

その答えを求めるように、
陣内は再び、江戸の町を歩き出すのだった。

――続く。

いいなと思ったら応援しよう!

Kei この言葉が、どこかで触れたなら。 そのお気持ちを、そっと置いていただければ。