咲かない場所【創作】
「未来の街」。それが、ニュータウン計画のうたい文句だった。しかしそれも、今から四十年前。当時から見た未来は、現在残っていない。
道路だけが引かれたあと、ガードレールは草で埋もれ、道路はひび割れた。森に今にも飲まれそうな、最後の一軒。「坂口」という表札は、意味を失った開発という言葉と一緒に、そこに取り残されていた。
「もう、土地を明け渡してください。」
若い市職員は、そう切り出した。
「この土地は、市が買い戻す方針です。」
坂口は、椅子に身体を預けたまま、客人の方を向いた。言葉を発するのも億劫だ、と動作で示したようだった。
「ここを自然公園として整備すれば、多くの人が訪れます。」
市職員は、同じ説明を繰り返した。
「もう四十年ですよ、十分でしょう。……事故の記憶も、ちゃんと展示で伝えられます。」
坂口はしばらく黙ってから、ひとことだけ返した。
「展示で伝わるなら、裁判なんて起きてないよ。」
ため息が、空気に混ざる音がした。市職員の男は、鞄に手をかける。
「……また、あらためてうかがいます。」
ばたん、と扉の閉まる音。客がひとり、来ようと来まいと。坂口は長い間、変わらないこの生活に縛られていた。
「私も、もう十分だと思うけどな。」
椅子の隣には、ひとりの女の姿があった。髪は長く、ひじ掛けに触れるか触れないかくらいの位置で手を遊ばせている。目を逸らしているようで、気持ちは坂口の方を向けていた。
「終わらせたくないんだよ、まだ……。」
坂口が、独り言のようにつぶやく。座ったまま前に垂らした頭では、髪はほとんどが白く染まっていた。女はそれをちらっと見てから、窓の向こうの生い茂る緑へと、視線を移した。
* * *
坂口は、古い軽トラックを走らせていた。車も、もうずっと買い換えていない。助手席には、黄色い花を抱えた女の姿がある。
「あっ。」
女が、窓の外を見て顔をほころばせた。
「今年も咲いてるね。」
返事はなく、坂口は無言で運転している。窓は開いており、風の音がごうと入ってきている。女は、腕の中の花をきゅっと抱きしめながら、思った。
無理もない。自分だって、自分の声がどんなふうに聞こえていたのか、思い出せなくなるときがある。
坂口の年齢は、もう七十にも届こうとしていた。ニュータウン計画のことは、一時も忘れたことがない。むしろ、当時よりもずっと彼を支配していた。
それは春になるたび芽吹く草のように。何度刈っても、胸の奥から顔を出す記憶だった。
山を切り開いて谷を埋め、住宅地を造るという大規模事業。坂口は当時、市の都市整備課の担当課長だった。
若くして、任された大仕事だ。決して簡単ではない。だからこそ、やりがいという言葉がかたちをとって、胸の奥からせり上がってくるようだった。自分ならできると信じ、日々邁進した。
住民説明会には毎回立ち、反対する地権者に頭を下げては、着々と工事を進めた。
ところが、造成工事の最中、大雨で法面が崩れた。
作業員が亡くなり、近くの集落にも土砂が流れ込んだ。結果、他にも行方不明者が数名という、大きな事故となった。
調査では「想定外の豪雨」と結論づけられたが、後になって、安全性を指摘する報告書が握りつぶされていたことが明らかになる。坂口にとって、寝耳に水の話だった。いや、突然のことで、それを気にかけている余裕すらなかったかもしれない。
土地の人間に落ちた、不安の影も大きかった。
当然、計画は頓挫。施工を請け負った会社は合併し、市長は交代。当時の関係者は次々に退職を余儀なくされた。
最後まで名前が残ったのは、担当課長だった坂口だけだった。遺族の一部は、今も国家賠償訴訟を続けている。
「……辞めたり、去ったりして責任がなくなるなら、楽でいいだろうよ。」
ハンドルを握りこむ力が、強まる。決して大きな声ではなかった。低く、沈み込むような音だった。けれどその声だけは、風にかき消されず、女の耳にもしっかりと届いていた。
* * *
事故現場は開発が止まり、そのまま立入禁止区域になった。計画途中のその場所は、行く末が定まらないまま、四十年。
その間に木が生え、湿地が戻った。希少植物が発見され、小さく記事になったこともある。
そして行政は今、その一帯を新たな観光施設や自然公園として整備したいと考えていた。
だが、坂口がその土地の一部を買い取っており、自費で長らく管理を続けていた。慰霊碑も建てず、花だけを植え続けた。黄色い、ヤマブキの花だった。
行政から見れば、彼は再開発を妨げる頑固な老人でしかない。
『もう四十年ですよ、十分でしょう。』
市職員の言葉が頭をよぎる。視界を睨みつけて、坂口はブレーキを踏んだ。女の身体が、少しぐらつく。トラックが止まると、周りはいつもの景色だった。
山の木々に囲まれた場所で、黄色一面の花畑が広がっている。少しずつ、時間をかけて、大きくなっていた。
「俺が忘れたら、全部なかったことになっちまう……。」
今日も坂口は、ヤマブキをその地に植える。膝をつき、自らの装いを泥で汚しながら、その黄色を広げた。土質の関係か、植えても咲かない場所もあった。それでも、毎年少しずつ、確実に広げた。
「きっと、そこじゃないよ……。」
女は坂口のそばで、立っていた。
「ヤマブキの花ね。……春だなあ、って感じて、好きな花だったよ。でもあのころは、お父さんがお家でゆっくりしている時間のほうが、ずっと私には大切だった。」
春の山の風が、彼女の髪をふわりと持ち上げる。荘厳な黄色が、波紋のように広がって風になびく。日の光を返し、黄金と見紛うようだった。
山から遠くに見える景色も、四十年前と随分移り変わっていた。坂口は、作業の手を止めなかった。
* * *
坂口は、最後まで、土地の権利を手放さないという意志を貫いた。
しかし、プライドだけで積み上げられたその山は、脆かった。時間。体力。環境。信念だけで支えるには、坂口は年を取り過ぎてもいた。
そして、あっけなく瓦解する。裁判に負けたのが、最後の一押しだった。強制執行の末、その土地に重機が入る日が決まった。
長らく続けてきた戦いが終わった。坂口は残った虚無感だけを握りしめて、工事の現場を眺めていた。作業をしているのは、過去のことを知らない者ばかりだろう。だが、きっと事故はもう起こらない。
黄色い花は、これからはもう必要ない。それでも、その現場から、足が動かなかった。見届けなければならない。そんな気がしていた。
作業員の声がかかる。
「危ないので下がってください。」
「ここから先は立入禁止です。」
四十年前も、事故のあと立入禁止になった。今も同じ。ロープ一本の隔たりで、あいつがいるかもしれない場所へ行けなくなる。
そこへ、女だけが入っていった。ロープをひょいとかわして、まっすぐに歩いていく。くるりと振り返って、言った。
「お父さん。」
何かに引かれるように、坂口が一歩だけ前へ出る。しかし、警備員に止められる。
「危ないです!」
女は、さらに奥へ。黄色い花畑から少しだけ外れた、咲いていない場所へ。地面がそこだけ、少し窪んでいる。
しゃがみ込んで、手で土を撫でた。
その瞬間。
ガンッ!
重機のバケットに、手ごたえがあった。運転手が顔をしかめる。
「石か?」
エンジンが止まり、現場監督が歩み寄る。作業員がスコップを持って土を払った。白いものが見える。
どんよりとした、粘着性のある雰囲気が場を支配する。
「監督……。」
呼ばれた男がしゃがみ込む。土を払う手つきだけが、急に丁寧になる。もう重機を動かそうとする者は、誰もいなかった。
「警察を……。」
離れていた坂口にも、その言葉は耳に入った。あの事故のとき以来の、衝撃だったかもしれない。
作業員たちの対応を近くで見つめていた女は、いつしか四、五歳の少女の姿になっていた。そして坂口に向かって、舌足らずな口調で言った。
「だから言ったのに。」
少女がくすりと笑うと、大きな風がひとつ吹いた。
坂口の眉がぴくりと動く。けれど、視線の向こうには、もう誰も立っていなかった。
咲き残っていたヤマブキが、一斉に揺れる。黄色い花びらが、立入禁止のロープを越えていった。
春の風は、四十年前と同じ匂いがした。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。