ちゃんぽんのある街には、好きが潜んでいる
密かに、やり遂げたいことがある。
九州のご当地ちゃんぽんに、土地ごとに出会っていくことだ。
長崎、小浜、平戸。
気づけばいくつかの街で、ちゃんぽんを食べてきた。
鶏ガラや豚骨、あご出汁が効いたもの。
スープひとつとっても、土地ごとに表情が違う。
それでも、野菜や練り物、海と山の幸が、一つの器の中で、自然と調和している。

スープを飲み干したくなる

けれど正直なところ、細かな違いを分析して覚えているわけではない。
ただ、その場で「おいしいな」と、口に広がるまま味わっている。
味が好きなのかもしれないし、店の少し油の残った机の感じが好きなのかもしれない。
その時感じた「おいしさ」は、振り返ると、
土地の空気感とどこか結びついている気がする。
ちゃんぽんは、不思議な料理だ。
同じ名前でありながら、土地ごとに少しずつかたちを変える。
確固たる正解がないからだろうか。
ほかの食べ物ではあまり感じない、「あの街のちゃんぽんは、どんな顔をしているのだろう」という好奇心が湧いてくる。
土地に紐づき、食べた瞬間よりも、その土地を離れたあとに、じわじわと効いてくる。
だから、ちゃんぽんはひとつずつ辿っていきたくなる。そして、揃っていきそうな気配がある。
記録しようとして始めたわけではない。
ちゃんぽんを目当てに旅をすることもない。
いつも、心が動くままに訪れた土地で、ちゃんぽんに出会ってきた。気になる場所へ行くと、そこにちゃんぽんがあった。
旅先で食事を選ぶときにも、自然と候補にあがってくる。
ふと気づく。ちゃんぽんのある街には、どこか混ざり合った気配がある。
「ちゃんぽん」という言葉が「混ぜこぜ」を意味するように、海と山、外来の文化と土着の暮らしが重なり合っている。


平戸の郷土玩具、マキ人形
混ざりつつ、どこか整っている。
そんな街の空気に、先に惹かれていたのかもしれない。
地元の人のお店の、少し入り混じった感じがたまらない。そこには、私の「好き」の断片が必ず潜んでいる。
次は武雄か、戸畑か。
天草のリベンジも果たしたいけれど、なぜか今はまた、平戸の街が恋しい。
あの味を思い出すとき、同時に、あの街で過ごした時間ごと、静かな気配が重なってよみがえる。
食べる前や、選ぶときの感覚についても、少し書いています。
📖 食べる前の、ほんの一瞬
📖 ビーチコーミングと、選ぶという感覚
