ドラえもんと解像度
ドラえもんはずっと身近な存在だ。
アニメは子どもの頃から観ているし、ひみつ道具や登場人物のこともだいたい知っている。
カバンに入れているハンカチもドラえもんだ。
子どもはさらに漫画も図書館で借りて読んでいるから、「この話のもとになった道具の話、何巻のあそこだよ」なんて教えてくれることもある。
だから、自分ではかなり知っているつもりでいた。
コロナ禍には、ドラえもん映画をひと通り見返した。
オープニング映像には時代を感じるし、武田鉄矢さんの歌が流れるとなんだか安心する。
少し気恥ずかしくて、ちょっと微笑んでしまう。
何度も観る作品もあった。
あるとき、シリアスな場面の途中で突然ごはんを食べる場面が入ってきて、「今ここで?」と思わず口にしたことがある。
けれど、そのあと家族と話していて、ずっと緊張感のある場面が続くと観る側も疲れてしまうのだと腑に落ちた。
そこから少しずつ、映画の見え方が変わっていった。
スネ夫のちょっとしたセリフが視聴者の疑問を代弁していたり、ドラえもんの説明が物語を前に進める役割を担っている。
100分の映画のなかで、会話すべてに意味があるのだと感じるようになった。
よく考えたら当たり前かもしれないが、長く観ている作品なのに、まだ見えていなかったものがあったのだ。
そんなふうに、自分のなかで解像度が上がった気になっていた。
けれど最近、もっと単純なことに気づいた。
子どもが読んでいた漫画を何気なくのぞいたとき、ドラえもんに歯が描かれているのが見えた。
「え、ドラえもんって歯があるの?」
思わず驚くと、子どもは「あるよ」とあっさり答えた。
ドラえもんの歯を見つけた日、自分が思っていたよりずっと低い解像度で見ていたのだなと思った。
▽ 見えていなかったものが、ある日急に見えてくることがある。
