ツバメと、余ったタイルのこと
以前は見えなかったもの
数年前の私なら、きっと視界の端を通り過ぎていただけの、ある景色。
いまではそれを、一年の楽しみとして、ひっそり心待ちにしている。
始まりは、一年生になったばかりの息子の登校に付き添い、通学路を歩いていたときだった。
賑やかな鳴き声に顔を上げると、軒下の巣でツバメの雛たちが大きく口を開け、親鳥が忙しなく餌を運んでいた。
その光景は、やがて日課のように眺める時間へと変わっていった。
以来、三月の終わりが近づき、風に春の匂いが混じり始めると、自然と空を見上げるようになる。
鋭く空を切る黒い影を見つけると、「おかえり」と胸の奥がわずかにほどける。
数週間もすれば、軒下から鳴き声が溢れる。
やがて雛たちは、頼りない羽を広げ、精一杯に羽ばたこうとする。
毎年同じように見えるその営みも、見続けていると少しずつ違って見えてくる。それに気づいたのは、何度もこの光景を見守るようになってからだった。
かつては見えていなかったものが、いまは確かに目に入る。
近頃は、訪れたことのない街でも、無意識に軒先を見上げてしまう。
娘は絵本の『バーバパパ』を開くと、すぐにツバメの姿を見つけて指さした。その速さには驚かされた。
こうした気づきは、暮らしの中の小さなものにも重なっていく。
ビーチコーミングで拾い集めた、大量のシータイル。それらを本棚や台所の棚に、一枚ずつ貼っていくことにした。
棚の長さや色の組み合わせを見ながら、その場所に合うように少しずつ配置する。貼り終えたとき、選ばれなかったタイルが袋に残った。
その「余り」を眺めて、なんだかモヤモヤしていた時期がある。
一方で、わが家に柿渋を塗ったりんご箱がある。いっきに仕上げず、機会があるたびに塗り重ねてきたせいで、色の濃淡がグラデーションのように現れている。ふとその差を見たとき、「ああ、いいな」と心が動いた。
選ばれなかったタイルも、きっといまはまだ、次の場所を待っているだけなのだ。
その時々の感覚で、少しずつ足していく。
時間の中で、居場所が見えてくることもある。


繰り返しの中にある、わずかな変化。
それは、一度きりでは見えてこない。
だから私は、記録を残すようになった。
といっても、大げさなものではない。
手元にあった紙の裏に「○月○日、○○商店街」と書きつけるだけの、頼りないメモだ。
それでも、書き留めることで、確かに何かが残る。積み重なった断片が、自分の中の見え方を少しずつ変えていく。
子どもたちもツバメのファンで、このささやかな記録を一緒に重ねてくれている。


絵のタッチが変わりつつも、
いつも同じ方向へ飛んでいる


最初から意味を求めているわけではない。
役に立つとも思っていない。
ただ、そのときの空気に触れたまま、その時間を置いておく。
そうして残る記録が、静かに心地よく続いている。
時間の重なりの中で、手元に残っていくものについては、こちらにも書いています。
