こだま|新古事記|村田喜代子
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
困った。なにからどう書こう......。
『新古事記』の文庫化にあわせて再読し僕なりにまとめてみようと思ったのだが、どうにも頭がまわらないし手がふるえる。というのも僕の手におえるテーマではないからだ。
本作の『新古事記』は第2次世界大戦、米国が原爆開発のために“マンハッタン計画”を立ちあげ、ニューメキシコ州ロスアラモスの台地に学者たちが集結し、その生活をささえる妻たちの話である。
“原爆の父”ことオッペンハイマーや、あのファインマン等も登場する歴史・戦争小説なのだ。僕ていどが取りあげていいものではない。
それでもなぜ書こうと思ったのか? この記事は7月下旬から書きはじめ8月中旬にさしかかる。つまり終戦記念日がちかい。
日に日に近づいてくるのを感じ、『新古事記』を頭の片すみに追いやって他の本を読むことはできなかった。どうしても今書かなければいけないような気がした。
なぜなのかわからない。身体の内側がうずいてしかたがなかった。
でもどうやって書こう? オッペンハイマーの生い立ちから? 第2次世界大戦のことから? ロスアラモスならアメリカ先住民プエブロ族から?
考えているうちにどんどん歴史に飲みこまれていった。切り口が多く一つひとつに深い記録がある。日本人として恥ずべきだが僕はそこまで原爆開発の歴史に詳しいわけではない。
僕が知るのは1945年8月6日に広島、8月9日に長崎へ原爆が投下されて8月15日に日本が降伏したということと、原爆投下によっていまも正確な犠牲者数がわからないほど人が亡くなったということ。
それならばいっそ本作『新古事記』の主人公であるアデラとおなじ目線に立ってみよう。
彼女たちの夫が心血をそそいで開発した兵器がどう使われていくのか未来人の僕は知っているけれど、空から降りおなじ大地にたってロスアラモスのY地でアデラの背中をカメラ持って追いかけてみようと思ったのだ。
村田喜代子って?
村田喜代子はご存知だろうか。僕が尊敬する作家のひとりで1987年に芥川賞、2007年に紫綬褒章、2016年に旭日小綬章を受賞している。そのあいだに野間文芸賞なども受賞している。
つまり新人から今日にいたるまで作家として最前線に立ちつづけたしかな実力があるということだ。肩書は伊達ではなくどの作品も安定しておもしろく読みごたえがある。
個人的に国内屈指の作家だと思っており森の奥の賢者という印象がある。「九州の端っこでのんびり書いてきた」というのであながち間違いではないと思う。御年81歳で僕はふだんから勝手に先生とよんでいる。それぐらい大好きな作家だ。
なのでよけいに緊張するのである。
“あたし”について
“あたし”こと主人公アデラは日系3世の女性である。本作は彼女の視点をとおして描かれる。彼女は日本人の祖父をもつ。つまり排日の扱いをうけていた経緯がある。
Y地の動物医院であたしは受付係として犬の世話をし、ときには犬の出産まで手伝うようになる。
自分のことを“あたし”といい住みなれた場所を抜け出したい思いで、事情を知らないまま研究者の夫とともにY地へ移住した。
彼女は優しく気の強い、観察力がある女性である。
すてきな1日を!
「みなさん、静かに。ここは病院です」
Y地にあるオッタヴィアン動物医院の待合室は奥さんたちの溜まり場で、飼い犬を連れてぞろぞろとやってきては談笑し帰っていく。
Y地は“私書箱1663号”を介してのみ外部と連絡がとれる極秘の研究施設である。それにも関わらず息詰まるような描写はすくない。
サングレ・デ・クリスト山脈のゆうだいな景色を一望でき、空と大地がくっつくような地形をしているY地で自然の圧倒的な力に囲まれて過ごしているあたしたちは呆れるほどのんびりと過ごしている。
ある日、奥さんたちとあたしはプエブロ・インディアンの集落を訪れ自然とともに過ごす姿をみて、「この山へ来てからわたしたちは大事なものを失っていない? 祈りの時間よ」とY地にシナゴーグというユダヤ教の会堂をつくることを計画する。
このシナゴーグの建設によってY地は信仰につつまれ守られていく。
アメリカ先住民のこと
「何も持たないという心を、ずっと持って来ました」
アーイダはプエブロの女性で麓の村から軍用車にのせられてY地へ働きにやってくる。力持ちで荷物運びなどは朝飯前である。
しかし電気で動くものをみると恐ろしい声で絶叫して洗濯機を足で蹴り倒しひっくり返す。オオカミは平気なのにジャーマンシェパードやゴールデンレトリバー、ブルドッグは怖い。どこかかわいらしい女性だ。
プエブロは安価な労働力として使われる。おまけに没交渉で外部の人間と関わることもめったにない、都合の良い人間たちである。
アメリカ大陸の栄光と影、大自然と原爆開発、何も持とうとしないアメリカ先住民と、何もかも欲しがるアメリカ人。
『新古事記』ではどこかおもしろく滑稽に描写されているがまったく笑えない。なぜなら現実もその通りだから。
そうやって、この土地にきた入植者にインディオの食べ物も耕す土地も土地を耕す方法もみんな教えてしまって、それから岩と砂ばかりのこんな所へ追いやられた。
オッピーもファインマンも
神を信じない彼らも、美しい夜に信仰心の厚い妻に伴われてここへ来ることは嫌じゃないみたい。
お祭りでY地の手狭なシナゴーグが人であふれる場面がある。オッペンハイマー、シラード、テラー、ノイマンといったノーベル賞クラスのお歴々から若手のファインマンまで集まってくる。
月と星の下で深まっていく連帯感がうつくしくグロテスクである。
なぜなら世界中は死人だらけ。ドイツのドレスデンとベルリン、日本の東京で万単位の人が死んでいく。焼死、爆死、圧死といろんな殺され方をされていく。
何千万人殺した者でも男女の愛は変わらないのね。
光を手にした人たち
もし千の太陽の光が
一瞬に空中で炸裂したなら
それは神をも超えるものであろう
われは死神なり、世を破壊するものなり
原爆開発もいよいよ大詰めでトリニティ実験が始まる。Y地では朝日がのぼる前から男たちがホワイトサンズを目指して長い車の列をつくっている。
その日、あたしとあたしの夫はオッペンハイマーを含めたみんなが実験場へ向かうなか、気晴らしで反対方向の自然にあふれる場所で一晩過ごそうと車を走らせる。
どれだけ夜が深まっても起きている夫の様子をみて、あたしは苦しそうな背中をしていると鋭く察する。
「おれたちはとうとうクソッたれ野郎になっちまった」
火火火火火火火火火火火火
まず半円の中心は白色光の火火火火火火火火火が燃え、半円の一つ外側は黄色い火火火火火火火火が盛り、また一枚外側は橙色の火火火火火火火火を放ち、次は青色、次は紫色
あたしはたびたび夢をみる。それは海に飛びこんでアメリカに逃げこむ日本人の祖父を思い描いたり、ときには祖父自身となってあたしは追体験する。
Y地の男たちが実験場でなにをやっているのかあたしは知らない。しかしその晩に樹木の神が立ったまま焼け焦げていき、小さな神たちも逃げるために右往左往し夜空いっぱいに火が噴き上がる夢をみる。
たまらなくなって目覚めたあたしは窓をみて静かな夜にほっと息をつく。
翌日の帰り道でホワイトサンズに向かった長い車の列が坂の上をのぼりY地へもどっていくのを目にする。実験は成功し、あたしたちは祝福につつまれパレードの行進を心から興奮して楽しむ。
その興奮が醒めやらない8月5日夜。原子爆弾が日本のヒロシマに投下される。
Y地では異様な静けさがひろがり泣き声や罵る声がひそひそと流れていた。
誰を罵るの?
世界を司る神を?
それともあなたの夫たちを?
人類の文明を破壊しかねない爆弾のおそろしさに気づいたのは実験が成功し予想以上の結果が出てしまったあとだった。
アメリカ政府は懲りない猿の帝国が降伏するまで何回でも爆弾を落とす意志があった。
その後日本は降伏した。死にたがる猿の国がようやく両手をあげて連合国に降参した。
「先生。原爆開発が文明なら、文化って何でしょう」
「そうだな……。文明は開発にカネがかかる。だがそのぶんカネも生んでくれる。その点、文化にはカネはかからない。したがってカネを生むこともない」
軍楽隊が演奏するヘイル・コロンビア、愛国歌を背にうけて一人またひとりとY地の山道をゆっくり下りて去って行った。
あとがき
原爆がはこぶ死の風が海をわたってあたしの頬を撫で、赤ちゃんのしめったガーゼを乾かし、男たちの熱をさます。
先日市役所に用事があり呼ばれるまでのあいだ、ふらふらと歩いていたら“原爆ポスター展”という看板が目にとまったので何の気なしに立ちよった。
そこにはべろんと皮が剥けて真っ赤な身体をした人の写真があった。
いったいどういう状況で、うつっている人は生きているのか亡くなっているのか? こわくて全部がみえないように薄く目をあけて、あるいは視界のすみでみられる位置に立って写真をながめていた。
無味無臭の市役所にぽつんとある赤い写真はぜったいに風化させまいと伝えてきた。
『新古事記』は友情と友愛と結束の物語である。
本作はどこまでも愛情に満ちあふれている。鉄屑の山と積み重なった遺体はすべて新聞の中で起きていること。
実験で大地がめざめるような轟音が鳴り響くとともに「よからぬことが起きるのでは?」という不安と「夫たちはかならず仕事をやり遂げる」という期待にはさまれるが衣食住に困ることはない。
物資が不足してもそれは地形上の問題で戦争の影響をうけているわけではないことが描写されている。
同時代の世界ではおびただしいほど人が亡くなっているのにY地では人も犬も出産ブームで、奥さまたちの話題は日常そのもの。
これを読んでいるまったく関係のない僕ですら、どうにかなりそうだった。当時ロスアラモスにいた人たちの精神状態がすこしずつバランスを失っていくのもうなずける。
本作『新古事記』は物理学者の夫を持つフィリス・K・フィッシャー『ロスアラモスからヒロシマへ 米原爆開発科学者の妻の手記』から着想を得ている。
したがって僕も『ロスアラモスからヒロシマへ 米原爆開発科学者の妻の手記』を読んだ。残念ながら絶版で中古でも出回っておらず図書館にこもってひたすらページをめくった。
そこには『新古事記』とおなじ光景が広がっていた。最初から日本に勝ち目はなかった......。わかっていたことだけれどあまりに余裕のある生活に本を持ちながら茫然としてしまった。
開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。
著者のフィッシャーは原爆慰霊碑に向かって祈りを捧げる、前かがみの弱々しい着物姿の老女をみて「人間の人間に対する非道」を忘れまいとひとりのアメリカ人として誓った。
もし何か不思議な力で言葉が通じ合えたら、互いにどんなことを語り合ったでしょうか。戦勝国と敗戦国を代表する人間としてではなく、ただの女として、深く悲しんでいる二人の女として向き合ったでしょうね。
広島でみた老女をリトル・レディ・オブ・ヒロシマ。ヒロシマのおばあちゃまと呼ばせてほしいと手記は始まり、「本当ならただの女性として向き合いたかった。だけれど核の惨禍を身をもって経験したあなたと、それを想像で恐れている私ではわかり合うことは難しいでしょう」と書いている。
そして自分は平穏無事に家族と暮らすことを望んでいた普通の若妻で、原子エネルギーの解放が将来にわたってどんな意味をもつようになるのか、ほんのこれっぽっちも理解できていなかったと続ける。
私たちは有刺鉄線の中の犠牲者ではなく、外の世界の人々を被害者にしてしまう武器を有刺鉄線に守られて作っていたのだと、間もなく知ることになります。自分たちが「被害者」なのか「加害者」なのか次第にわからなくなっていました。
家族間で秘密がある状態で有刺鉄線と塀に囲まれ、車の検閲と指紋押捺などのいちいちが隔離の特別な理由を思い出させられたと彼女はいらだつ。
この半監禁状態はやっと逃れてきたあのナチ収容所に似かよっているとヨーロッパからきた家族は強いショックをうけている。守らなければいけない秘密がある以上、やむを得ないことではある。
なおこの地で軍人が“英雄”になることはない。あまりに平和だから。
そうして日々を過ごしていくうちにヒロシマに原爆が投下された。
信じられる? 「10万人以上のジャップがこの1発で死亡しました」って、アナウンサーが自分のことみたいに威張ってたわ。その数字を、まるでスポーツ試合のスコアでも読み上げるみたいに1字ずつ吐き出すように言うのよ。ねえ、死んだ人の数なのよ!
あんなに厳重に何ヵ月も秘密を守らせておいて、こんなこと、もうたくさんだわ。
ロスアラモスで開発された爆弾によって平和が実現しても、同時にその爆弾が世界に新しい恐怖の次元をもたらすことがわかると、周りでの浮ついたお祝い騒ぎとは裏腹に心はどんどん冷えていくとフィッシャーは感じていた。
そして2つ目の原爆が長崎に投下され、日本はようやく降伏した。
戦争が終わり、出産を1ヵ月後にひかえて幸せいっぱいの時期なのにフィッシャーはひどく気分が落ち込んでいた。
私の不安感は「トリニティー」以前の、おそらく赤ちゃんの名前を考えていたあのころから始まっていたようです。この不安は、ヒロシマとナガサキの記録映画を観たあたりで抑鬱状態に変わっていきました。
Y地ことメサに来たばかりのあの頃の自分たちと、ロスアラモスを去って行く今の自分たちが同じ人間とは思えないほど変わってしまったとふり返っている。
オッペンハイマーは1965年のインタビューで核兵器の拡散防止はどうしたら良いかと質問をうけて「20年遅かった。トリニティ実験の翌日に取りかかるべきでした」と答えている。
……言うべき言葉が見つからないとはまさにこの通り。
すべてを受けとめるには時間がかかるし、そもそも受けとめきれるものではないのかもしれない。
それでも今、ひとつだけ言えることがある。
ヒロシマのおばあちゃま、フィッシャー、4人の女性翻訳者たち、そして村田喜代子へ記憶と物語は継がれていった。そうして『新古事記』は完成した。
こだまのようにようやくあなたたちの声が僕にもとどいた。
新しい世界は神ではなく自分たち人の子がつくる。人の子、人の子、人の子たち。この『新古事記』を決して忘れまい。
そして僕もまた語り継いでいきたいと胸に刻む。
