戦国武将「浅井長政」乱世の生き方―小谷城跡を訪ねて―前編
山城が語る戦国武将の生き様
虎御前山城を後にして、小谷城戦国歴史資料館へ向かった。小谷城下に設置されているこの資料館では、静寂な虎御前山城とは対照的に、観光地として賑わっている。
入館して、第1展示室で浅井氏と対面し、第2展示室では、ボランティアの方が展示資料説明をされており、観光客は、静かに聞き入っていた。
資料館を出ると、追手道(おってみち)から小谷城跡(おだにじょうあと)へと踏み入れる。


城の防御に欠かせない「番所」の手前に「金吾丸」(砦)がある。
【金吾丸の不思議】
ここは、観音寺城を拠点とする六角定頼(南近江を支配する戦国大名、管領代を務めるなど、名門佐々木氏の流れをくむ。)が北近江の浅井氏を攻める際、初代浅井虎政(あざいすけまさ、長政の祖父)から救援を依頼された朝倉宗滴(そうてき)が陣を敷いた所であり、朝倉宗滴の仲介によってこの戦は治められたと言われている。
宗滴は、越前朝倉氏の隆盛に大きく貢献した武将で、高く評価されている人物であり、これによって、朝倉氏と浅井氏の深い繋がりができ、後に、浅井長政が織田信長よりも朝倉義景との縁を重んじる一因になったと考えられている。
朝倉氏を敵に回してまで、浅井氏との戦を続けることは、聡明な六角定頼の選択にはなかった。
朝倉宗滴の援軍がなかったならば、両軍ともに多大な死傷者をだしたに違いない。

ところが、「金吾丸」の立札には、「大永五年(一五二五)六角定頼が小谷城を攻めたとき、六角氏の援軍として朝倉太郎左衛門尉教景(宗滴金吾)がここに陣を布いたと言われ・・・・」と書かれ、また、「金吾丸跡」の立札には、「大永五年(一五二五)六角定頼が大嶽城を攻めた時六角氏の合力として越前朝倉氏の軍奉行朝倉太郎左衛門尉教景(宗滴金吾)がここに陣を布いたと言われ・・・・」と書かれている。
朝倉宗滴は、前説では浅井氏の味方、後説では六角氏の味方となり、真逆の話で、浅井氏と朝倉氏の関係が大きく異なる。
そこで、「番所」と「金吾丸」の位置関係を見る。
「番所」は、登城者の検問をした所、小谷城本丸へ通ずる入口であり、「金吾丸」は、その目と鼻の先にある。その下方には、「出丸」があり、この辺りも小谷城の城郭であったはず。位置的に見ると、敵の城郭内に陣を布くようで、「金吾丸」の場所に、浅井氏の敵の陣地が造られたとは考えにくい。平地に陣を布くのとは違い、曲輪や土塁を造成するのだから。すでに存在していたものを占拠した記録はない。
「金吾丸跡」に立つと、本丸を背に、小谷城を守り、六角軍に睨みを利かす朝倉宗滴の姿を思い浮かべる。

ところで、何故一つの出来事で、真逆な説が生まれるのだろうか?
この朝倉宗滴の布陣も含め、戦国の軍記が後の江戸時代に書かれており、当時直接関わった人物による記録(一次資料)ではなく、後世において、伝聞を記したもの(二次資料)で、創作や脚色されたものも少なくない。
そもそも戦国時代における平時とは如何なるものか。山城では、四六時中臨戦態勢でなければならなかったのか。深い睡眠をとることができたのだろうか。現代人のように、夢を見た記憶があったのだろうか。
江戸時代の元禄ように、平和が定着してから軍記がたくさん書かれたとすれば、軍記も娯楽の道具の一つであったはず。
ましてや、虎御前山城と小谷城において、それぞれ織田信長軍団と浅井氏が睨み合っている正にそのときを忠実に記録することができるのだろうか。この合戦が終わって、息つく暇もなく、勝者である織田信長とその家臣は、天下取りに奔走している。敵になったり、味方になったり、戦国武将の間で、意志等の伝達は、貴重な和紙を用いた手紙を以て行われ、その書状が重要な歴史資料となる。乱世における手紙は、戦術の一つである。
では、一体、歴史に何を学ぶことができるのだろうか。乱世に生きた人物の生き様を真に理解できるのだろうか。勝ち負けで歴史上の人物を評価することは稚拙である。何故命を賭して行動したのか。何故自分を生き抜くことを選択したのか。私は、そこに憧れを感じ、自分を生き切ることを重ね合わせたい。そんな憶いで浅井長政に会いに行く。

「金吾丸跡」から少し下ると「番所跡」の立札とともに、復元図があり、当時の様子を今に伝えており、浅井長政に謁見する心構えを確認しつつ、無事、番所を通過すると、眼前に、虎御前山とその先に琵琶湖が広がっている。
ここから虎御前山城の動きが良く分かる。


さらに、進むと「御茶屋」がある。乱世に建つ風流なオアシスと思いきや立札には、軍事施設とあるが、復元図に小規模な御殿と庭が描かれている。平時の茶屋を兼ねた軍事施設であろうか。


その先に、「御馬屋と馬洗池」があり、馬の脚の汚れを落としている光景が想像できる。客人の御馬が鄭重に扱われていたことを窺い知ることができる。


この「御馬屋」の横に、「帯曲輪」の立札があり、中丸附近まで帯曲輪(おびくるわ)が続いている旨記されているので、細長い道を進んで行くと、所々崩れたような石垣があり、この道も曲輪の一種「帯曲輪」であることに納得する。本丸での浅井長政との約束時間までは充分あるが、先は長く続いていそうなので、途中で引き返した。

「御馬屋跡」から登城を再開すると、道の端に大きな石があり、「首据石(くびすえいし)」の立札の説明によると、初代浅井虎政と六角氏との合戦の際、浅井氏の家臣今井秀信が敵方に内通していたことが発覚し、これを誅殺し、その首をその石に晒したということである。家臣たちが登城する際、否が応でも目にするところに、首が晒されており、裏切るとこうなるぞという見せしめであろう。乱世では、晒し首も統率の手段の一つである。ここは、ぞっとするから晒し首を想像せずに通過する。

登城道を進むと、立派な門があったであろうことが容易に想像できる「黒金御門跡」が現れる。その手前西に「桜馬場跡」と表示された大きな「曲輪」が二段になって広がっており、小谷城跡において最も眺めが良い場所と言われるが、復元図によると、織田信長の虎御前山城を見張る高い櫓が設置されており、堅固な石垣によって防御されている。黒金御門とともに桜馬場は、浅井氏守りの要であったことが容易に想像できる。
また、ここには、浅井氏及家臣供養塔があり、その上部に巨石で造られた「小谷城阯碑(おだにじょうしひ)」が設置されている。
平和な時代に生まれて、史跡に触れては、当時の戦に思いを馳せる、何と気楽なことだろう。せめて、供養塔に合掌せねば。
気を引き締めて、「黒金御門」をくぐり、いよいよ浅井長政の待つ本丸へと向かう。




後編へとつづく
