☆現代の布教が隠してしまう真宗の核心――「ごまかしの安心」ではなぜ救われないのか
布教使の説法を聴いていて、どうしても拭いきれない深い違和感と、決定的な物足りなさを抱くことがあります。
それは、なぜ多くの説法が「私たちは欲深く、腹を立てて、愚痴ばかりのダメな存在ですね」という、お決まりの「煩悩の話」に終始してしまうのか、という疑問です。
確かに、自分が煩悩具足の凡夫であると知らされることは大切です。しかし、人間の愚かさやドロドロした内面をいくら顕微鏡でのぞくように見つめ直したところで、それは単なる「自己反省」の堂々巡りにすぎません。自力のはからいという狭い檻の中で、自分を責めたり納得したりしてぐるぐると回っているだけであり、そこには本当の意味での人生の転換も、救いも起きないのです。
ここで決定的に見失われているのは、「どれほど自身の煩悩を見つめたところで、本願に対する『疑い』が晴れなければ、人間は救われない」という浄土真宗の救済の根幹の問題です。
本当に私たちが聴かなければならないのは、「本願を疑うとはどういう事態なのか」「その強固な自力の闇が、どのように他力の光によって打ち砕かれ、晴れ渡っていくのか」という、救いのダイナミズムそのものではないでしょうか。
法座は、単なる講義ではありません。
生死を超えたいと願って集まった人々に向けて、その場、その時の機に応じて法が説かれる、対機説法というライブです。
だからこそ、聞き手が今どこで立ち止まり、何に苦しみ、何を求めているのかに応える言葉が語られることを願わずにはいられません。
しかし、私がこれまで聴聞してきた多くの説法からは、この「疑い」という最も重たいテーマがほとんど語られていないように感じます。
たとえ、まれに「疑い」のテーマが語られることがあったとしても、「そのあなたの自力心は、今ここで南無阿弥陀仏を聴いているそのただなかで晴れているのですよ」という煙に巻かれたようなあっさりした一言の説明で終わってしまうことがあります。
しかし、「今ここで晴れている」と言われて、はいそうですかと晴れるくらいなら、誰も苦労はしません。
その疑いがどうしても晴れないので、私たちは身を切るような思いで、何度も何度も聴聞へ足を運ぶのです。
その切実な苦悩に向き合うことなく、教理上の答えだけで話が終わってしまえば、救いを求める聞き手の心に踏み込む対機説法にはなり得ない、と私は感じています。
では、なぜ、この生々しい「疑いと救い」の実態が、説法の中心として語られないのでしょうか。
私は、その理由を考え続けています。
少なくとも上記の話からは、私には、本願を疑うことの底知れない闇と、その疑いが本願によって破られるという切実なドラマを、自らの問題としてくぐり抜けた方の説法としては、なかなか聞こえてきません。
誰にでも当てはまる煩悩論という入り口にとどまってしまったり、「今ここで晴れている」という説明で話が締めくくられてしまったりするように感じるのです。
聴衆の共感を誘う世間話や身の上話も、その核心に至るまでの橋渡しになっているなら意味があります。しかし、それだけで終わるなら、救いを求める者にとっては物足りなさを覚えます。
形骸化した教理の説明や、表面的な煩悩論だけでは、救いを求める人間の魂は揺さぶられません。
いま私たちが本当に求めているのは、言葉のレトリックや予定調和のお答えではなく、本願への疑いが本当に晴れ渡るという、他力の圧倒的なリアリティです。
その一点が語られてこそ、法座は、いまここの聴聞のその場で、他力信心を賜り、生死の一大事を解決するものとなり、一座一座が真の意味での対機説法と受け取られるようなものになりえます。
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