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お坊さんになりたいと思った。 お坊さんになれないと思った。

この歳になるまで知らなかったこと、
多過ぎた。
当たり前だと思って放置していたこと、
多過ぎた。

私にとってそのひとつが「お坊さん」だった。

家には仏壇があるし
身内が亡くなったら葬式は仏式だし
お墓はお寺さんにあるし
それが普通だと思っていた。

一方で、特に信心深いとか、
お坊さんの説教を聞いて育ったとか、
一切なかった。
普通の家庭で育った、いわゆる普通の日本人。

「仏壇、葬式、お墓」は家庭にワンセット、
生まれながらそこにあるもの。
ミニマム揃っていれば、それで良い。
質問をする気になったこともない。
問題意識など持ったこともない。

だから、余計にカルチャーショックだったのだと思う。

それは近年、
「お坊さんになる」方法を模索した時のこと。

ひところ流行った「体験」目的のマインドフルネス、坐禅、宿坊などではなく、
今の日本で職業としての「僧侶」になる方法を探った。かなり具体的に、真剣に。

わかったのは

今の日本では仏教の僧侶は「世襲制」が基本ということ。継ぐ「お寺」が無いことには、
住職(ひとつのお寺を運営/経営する僧侶)としての身分は保証されないということ。

「僧侶」は、医者や弁護士などのように、
全国一律、決められた国家資格を取得して成るものでは無いということ。それぞれの宗派がそれぞれのやり方、修行のやり方を含め、僧侶の資格を定めているという。

つまり
親の代からのお寺(箱)とそれに紐づく檀家(固定客)をセットで受け継ぐことのできない者はどこかのお寺で修行を積み下働きをし、
そこで雇われ僧侶として生計を立てる他ない。

ツテをたどって
実際にお寺で長く厳しい修行を終えた方達(お寺出身ではない方達)に聞いてみた。

たとえ厳しい修行に耐えられたとしても、
住職として仕えるお寺はもちろん、
僧侶として雇ってもらえるところがない。
地方に行けば、確かにお寺はたくさんあるが(*コンビニより多いとか)、
過疎化した村のタヌキやキツネが、
檀家としてお寺を支えてくれるわけもない。
「食えない」という現場の悲痛な声が聞こえてきた。

*2022年2月時点で全国のコンビニ店舗数は5万5千店以上。お寺(仏教施設)は全宗派で約7万5千件以上とか。それぞれ
「JFAコンビニエンスストア統計調査月報」
「総務省統計局」調べ

その上
仏教学部のある大学で、
学位を取得すると僧侶になれるのかというとそうはいかない。それぞれの大学がお寺に紐づいていないから、卒業できても就職口が保証されていない。
研究者として大学に残る方法はあるが、
住職(ひとつのお寺の経営責任者)や
職業としての僧侶(ひとつのお寺で働く僧侶)になれる保証はないという。

つまり日本の仏教界では
アカデミア(大学など研究機関)と、
社会の現場(お寺)がつながっていない!

というかそもそも
仏教実践の現場であるお寺と地域社会のつながりってどうよ?と見回してみると、、
年々歳々希薄になっている。
循環していない。

・一番身近な筈のお寺による「お墓ビジネス」が成立しなくなっている上に
・地域コミュニティが支えてきた「檀家システム」は崩壊寸前

私自身、困ったことがあったらお坊さんに相談なんて、考えたことないし、
身の回りの人からもついぞ聞いたことない。
昔の人はどうだったのだろうか?
駆け込み寺というものがあったというが、
役立っていたのだろうか?
葬式(一生に数回という儀式)以外で、
私たちがお坊さんを必要としなくなってしまったのは、どうしてなんだろう?

仏教って、
今の世を生きる人達に寄り添っていない?
日本の仏教界には、
ビジネスとしてのエコシステムが無い?

とまあ、自分なりに、
調べた。聞いた。逢いに行った。
宿坊に行った。摂心に行った。修行真似事やってみた。仏教専門大学を訪ねた。願書を取り寄せた。面接もした。

そして、諦めた。
お坊さんになるの、諦めた。

理由は2つ。
(己の覚悟の未熟さは、棚に上げた上で)

1つは先に述べたように、
お坊さん修行を終えた後、現実社会に着地点が見えなかったから。

もうひとつの理由は、私自身にあった。
以前から気がついていなかったというと嘘になるのだが、私には断念せざるを得ない、体質的な問題があった。(こちらの方が重要)

それは「笑ってしまう」こと。
式という名前のつくもの全て、
儀式がものものしければものものしいほど、
荘厳であればあるほど、ダメなのである。
偉いお方が真剣な面持ちで、一連の儀式手順を執り行うその一挙手一投足がダメなんである。

エリザベス女王だろうと、ローマ法王だろうと、天皇陛下だろうと、ダメ。
偉ければ偉いほど、ダメ。

そのお方が、普段の生活で当たり前すぎることをしている姿を想像してしまって。
(鼻毛を抜く、靴下の匂いを嗅ぐ、エロ本を隠すなどなど、ああ、想像はとめどなく。)
そのお方が、式の途中でうっかり滑って転んでいる姿を想像してしまって。
(変な格好の大きな椅子とか、傘とか、帽子とか被っていると、特にダメ。)

そりゃあ大人だから、我慢はします。
しますが、吹き出さないよう堪えるのに苦労する。それくらい、想像がリアルで、
目に浮かぶ偉い方の人間味溢れるそのお姿が「かわい過ぎて」、心そこにあらずになってしまう。

くだらない?
失礼極まりない?
はい、そのくだらなくも失礼な理由が、私にとっての致命傷だったという
お恥ずかしい話。

あれからそろそろ10年。

もしかしたら
現実の暮らしの方が修行より大変なのでは?
いやいや、
この猥雑な日常こそが修行なのでは?
と感じ始めた、不謹慎な日々。

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