その前に人である看護師
今は亡き私の母は昭和の看護師でした。
第二次世界大戦終戦直前に志願し、現在の 諏訪赤十字病院に奉職しました。『お国のため』ではなく、南方へ従軍している長兄の顔が見たいという純粋な娘心が動機だったと聞いたことがあります。
しかし、それは叶うことなく母は結核病棟に詰め、当時の不治の病で手の施しようのない軍人さんたちの、血痰が溜まった痰壺を毎日毎日処理していたそうです。時には表面張力でこぼれ落ちる寸前の痰壺をそろりそろりと人の通らぬ廊下を処置室に向かったと言っていました。
戦時中、しかも敗戦に向かいながらもそれを微塵も認めぬ軍部の支配下で看護師になり、救護員として働く母に、どんな教育がなされたのか確認のしようもありません。しかし、痰壺処理を新入生の必須の通過地点としていたと考えれば、教育など皆無に等しかったのかも知れません。
後年、自身の身を人に捧げる姿ばかりを私の記憶に残してきた母がどこでそのすべを身に付けたのか私にはわかりません。
もう、半世紀以上も前の話です。私たちは愛知県豊橋市のJR豊橋駅から徒歩五分ほどの、ほどよい田舎町の住宅街に住んでいました。私と兄は小学生、母は駅前の総合病院で看護師長として働いていました。気のいい母は、地方から集まってきた寮暮しの若い看護師たちを順番に自宅に連れてきました。里心のついた若い看護師たちに手料理を食べさせて、酒を飲ませて話を聞き、息抜きをさせていたのです。
時子はそんななかの一人でした。青森の漁師町で育ったという時子は、山形出身の母とは違う東北訛りで話をし、夜勤明けには母と若い数人とともに朝から酒を酌み交わす姿を見かけたこともありました。
でも、色白の優しそうな時子の笑顔が私には時々不自然に見えることがあり、母と二人きりの時には涙を流していることもありました。
その日は小学校が開校記念日で休みでした。障害を持つ兄が登校後に学校からの呼び出しのかからない安全な日を母ハルヱは選んだのでしょう。
夜勤明けのハルヱと時子は小走りで自宅にやって来ました。
「ハルヱさん、本当にありがとう」
時子は母にすがる子のようにハルヱに抱きつきしばらく泣いていました。
「時子、時間がないのよ。涙はこの先のためにとっておきなさい」
「わかった」
時子は私の身体も強く抱きしめ耳元で
「ありがとう。本当に楽しかった」
熱い吐息と時子の涙で濡れた柔らかい肌を私はまだおぼえています。
そう言い二人は豊橋駅に向かったのです。
それから五十年、このことは触れてはならない何かなんだと私は思い、その日も含めて一切母に訊ねたことはありませんでした。
そして、無言は母の女としての矜持であったことを、ある日知ることになったのです。
その頃、私は自身の人生で一番辛い山を登る最中でした。母のアルツハイマーが進行し、父のC型肝炎も進行し、同時に兄の持病であるてんかんも手を付けることのできないような状況になっていました。
毎週末、会社から勤務時間中に抜け出して、新幹線に飛び乗って自宅に一人飛び込んで家事の一切をやっていました。アクロバットのような日々を送っていたのです。
三人との食事が済み、兄、両親が風呂に入り、やっと一息つく頃にはいつもかなり遅い時間となっていました。一人缶ビールを飲みながら、勝手口に『むつのホタテ』とシールの貼られたトロ箱が置かれていたのを思い出しました。
その前の年のこの時期にも同じのがあったことも同時に思い出しました。
ハッと多くの記憶が甦り、勝手口に走れば宅急便のラベルもそのままでした。
送り主に「時子」の名を認め、すぐに電話をしてみました。
「ひでき君なの」
私の一報で、時子はすぐに私を認知しました。
そして、すべてを悟ったのでした。
時子は泣きだし、しばらく話は出来ませんでした。
私はこのことでこれまでの展開が想像できました。
五十年前のあの日、時子は母ハルヱに金を渡されて着の身着のままで、豊橋駅から新幹線に飛び乗って、故郷青森に向かって夜逃げならぬ朝逃げをしたと言いました。
時子は結婚に失敗し、働かぬ酒乱夫に毎晩暴行を受けたそうです。DVなんて言葉のまだ無いその頃、相談を受けた母が決行日を決めて時子の背を押したそうです。
「あとのことは私に任せなさい」
そう言ってハルヱは病院までやって来たDV男と対峙したそうです。
それから離婚も出来て、二度目の結婚で幸せな生活を掴んだそうです。
せめてものお返しと毎年地元のホタテ貝を送ってくれたそうです。
毎年この時期になると、我が家で不相応な立派なホタテを食べていたことに疑念を持つことの無かった自分に舌を打ちました。
時子は言ってくれました。
「ハルヱさんの認知症が進んでるのは知ってた。今年はホタテ貝を送っても電話が来ないからきっと何かあったんだと思っていた。そこにひでき君からの電話だった」
深く深く感謝されて電話を切りました。
人の世話ばかり焼き、自分のことは二の次の母でした。
看護師だった母ハルヱ、看護師には適性があると私は思います。
母は看護師に向いた人間だったかも知れません。でも、母はどんな職業についていようとも、専業主婦であったとしても、同じことをやっていた人だと思います。
人ととして、どう生きどう行動するか、職業は関係ないかも知れません。
ここに母が看護師としての職に就いた時の「救護員手帳」があります。
教育勅語から始まるこの手帳に『愛』という言葉は一文字も出てきません。旧字の漢字とカタカナばかりのこの手帳で目に付くのは天皇、軍人、忠節、礼儀、奉仕です。
一、患者ヲ救護スルハ彼我ノ別ナク懇篤深切ヲ旨トスヘシ
とありますが、この患者は天皇の子達のこと、国に命を捧げることを厭うことのないよう教育された母の兄達のことなのです。
母は看護師として生きる前に人として生きてきました。
そして、自身の不注意で生涯降ろせぬ重荷を背負わせた兄のことを悔やみ悩み続けた末の、最後の神からの贈り物だったのでしょうか。
アルツハイマーで兄のことを忘れ、一人天に旅立って行きました。
殻付きのホタテ貝を処理できる人間がいなくなった実家の夜は、家族四人が集まることのできたこの家のもう最期に近づいていた頃でした。
その晩、私は腐らせてしまったホタテ貝を感謝とともに丁寧に片づけ、時子への御礼の手紙を書き、翌日大阪へ帰る途中に豊橋名産ヤマサのちくわと共に青森に送りました。


