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酒と私(酒と高齢者)

 当年秋に私は六十六歳となる。世で言う高齢者の枠にすでに到達し、少し昔であれば、そろそろ世の営みから引退させてもらってもよい年齢であろうが、これまでの私の生き方のツケと「人生百年時代」と嘯く某国の施策にはまり込み、引退のゴールはまだまだ見えてこない。
 しかしながら、私は両親から託された健康な身体を享受し、一般的な高齢者よりも元気なようである。そんな私は負け惜しみじゃないが、基本的に働くことが好きなのである。それは頭を使う仕事でも、身体を使う仕事でも、どちらも好きなのである。
 たぶん、私は標準的な六十五歳よりも多くの種類の仕事をしてきたと思う。ゼネコン、設計事務所の建設業界の営業マン、肉体労働者、飲み屋の店主、障害者施設での介護者、請負の商業文章書き、どの仕事も私に多くを教えてくれた。今ある私の血肉はこんな雑多な仕事人生によって形成されているように思う。その傍らには忘れたくない強い思いで続けてきた合気道もあった。
 こんな私の人生に後悔することはなく、後悔したいとも思わない。私に限ることなく、多くの人生は思うようにはならない。思うようにならぬから面白いのだろう。

 そして、私の人生の傍らにはいつも酒があった。
最初に酒を口にしたのはたぶん中学二年だった。当時私が通っていた中学は現在の公立中学よりもおおらかだった。個性豊かな生徒が多かった。障害を持つ兄と、ともに登校する私を可愛がってくれる中三の先輩がいた。その先輩はいわゆる番長格の人間で、その体格は大人と変わらぬものであった。その先輩はすでに土方のアルバイトをしており、大人の世界で酒も嗜んでいたようであった。その先輩に「仕事のあとの酒は旨い」と聞いたのである。
 私の興味と憧れが募り、その先輩が飲んだという宝焼酎のずんぐりむっくりした瓶に『35°』とアルコール度数の書かれた一本を酒屋でこっそり調達した。そして、家でファンタオレンジで割って飲んだのである。後にも先にも天井がくるくる回る経験をしたのはその時だけだったと思う。

 その日から私の酒との人生は始まっているように思う。
十代最後は魚市場で酒の味を覚え、二十代前半では大学で酒での失敗をいくども繰り返した。二十代から三十代では会社と家庭で多くの人間と生きる難しさを学び、毎晩浴びるほど酒を飲まねば帰ることのできない日々が続いた。 

 馬鹿馬鹿しい自負ではあるが、アルコール飲料メーカーや酒造組合から感謝状の一枚も届いてもおかしくないほど日本のアルコール消費に貢献してきたと思う。
 そして、そんな男は私一人ではなく、この世にたくさんいるに違いないと思う。

 では、アルコール依存症でもない私が、なぜ五十年の月日の多くの時間を酒に費やしてきたのであろうか。
 それはまさしく生きるためであった。『生きる力』を酒にもらっていたと言い換えた方がいいかもしれない。
 酒には飲み方があることを知った。いや、ルールと言ってもいいのかもしれない。酒はただ飲めばいいってものじゃない。美味く飲まなきゃならないのである。
時には飲んじゃならない時もある。飲んでも酔ってはならない時もある。
 それを知るには馬鹿な飲み方をして失敗を重ねなければならない。無駄な金も使わなければならない。大事な人を一度や二度、泣かさなければならないのである。
 そして最後には、酒は楽しむために飲まなければならないと悟らねばならないのである。楽しい酒が本当に美味い酒なのである。自分の時間を楽しみ、自分の人生を楽しまなければならないのである。
 順風満帆の人生を歩み酒を楽しめというのではない。傍目でそんなふうに見える人間だって必ず何かを抱えている。誰もが胃が痛くなるような荷を背負って生きている。そんなことが酒が美味くなる要素にもなる。心して飲む酒は思考を前向きにしてくれる。背負った荷がただただ重いだけのものじゃないと教えてくれる。そんな酒は良い酒なのである。
 良い酒は酒の質じゃない。心して酒に向き合うことができれば、場末の立ち飲み屋の一番安い日本酒でも良い酒なのである。

 私の酒との付き合いは死ぬまで続くような気がするが、酒が原因で死ぬことは無いように思う。こんなことも酒の飲み方になるのだと思う。

 『酒の一滴は血の一滴』という言葉が好きではない。
一途にもったいなさだけを強調しているように聞こえるからである。
生きるための力となる酒を余すことなく大切に味わうために、と理解して私はこの先も酒を飲み続けたい。意義のある、中身の詰まった飲酒の時間にしたい。酒を飲む時間も私には残り少なくなった大切な人生の一部なのだから。



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