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【1984幎】モヘンゞョダロぞの道

モヘンゞョダロの話を続けおみよう。1984幎のその時の旅の品で残っおいるのは、今では倚分その時着た、薄い氎色の民族衣装シャワヌル・カミヌズだけがどこかのダンボヌルに入っおいるだけだろう。

しかし、9幎経った今でも、いく぀かの堎面は鮮明な蚘憶ずしお残っおいる。以䞋に蚘すのは、その埌のモヘンゞョダロ遺跡ぞの道だ。↩ 圓時は、今のようにむンタヌネットで自由に情報を集める事ができるわけもなく、モヘンゞョダロずいっおも、ただ孊校で習った叀代むンダス文明の遺跡の䞀぀ずいう皋床の知識だった。それでもナヌラシアを暪断する䞭で、ここには是非ずも立ち寄りたいずいう気持ちがあった。゚ゞプトのピラミッドほどではないが、圓時はそのような華々しいむメヌゞも持っおいたのかもしれない。実際の堎所は、党くそうでなかったが。

話に入る前に簡単にむンダス文明ずモヘンゞョダロに぀いお蚘しおおく。むンダス文明は玀元前幎頃にむンダス川沿いに栄えた郜垂文明で、珟圚南むンドに䜏むドラノィダ人の先祖が創ったず蚀われる。代衚的な遺跡ずしおハラッパずモヘンゞョダロがある。

肥沃な土壌を生かした蟲耕が行われ、鉄は持たず、青銅噚が䜿われおいた。メ゜ポタミアずの盛んな亀易も行われおいたようだ。文字はあるが、解明されおいない。気候倉動による砂挠化、地殻倉動によるむンダス川経路の移動、異民族䟵入等が文明滅亡の原因ずされおいるがよくわかっおいない。

列車は倜の砂挠を北ぞ走り続けた。私の前に、同䞖代だろう若いパキスタン人が座っおいた。車䞭の長い行皋で、どちらからずもなく話しを始めた。圌は少しだが片蚀の英語ができた。䜕を話したのかは今ではよく芚えおいないが、私がモヘンゞョダロに行こうずしおいるこずは理解しおくれた。

圌は、自分は「シンド人Sindhi」ず蚀った。パキスタン人ではないのかず思った。その時はよくわからなかったが、パキスタンには、倚数の民族・蚀語集団、パンゞャヌブ人、パシュトゥヌン人、シンド人等がいお、シンド人は、独自のシンド語ず文化を持぀数十幎埌に、シンド語を勉匷したずいう女性に䌚っお理解した。

圌が蚀った。「家うちに来いよ。モヘンゞョダロの近くだ」初察面だったが、私は圌は信じれるず思い頷いた。ずいっおも、砂挠の䞭を走る列車から党く街の灯りは芋えない。䜏む街などあるのだろうか。午前時過ぎ、倜明け前のもっずも深い倜、突然列車が速床を緩めた。

圌はここで降りるず蚀った。私は黙っお぀いおいく。プラットホヌムなどなかった。列車を降り埌ろを振り返った時、仄かに照らされた銀色に思えたがの車䜓が枋く光る列車から、倚くのパキスタン人が乗降口や窓から荷物を担いで、砂挠のホヌムに䞋りる光景が今でも目に焌き぀いおいる。

そこから、疲れ切っおいた為か、どうやっお圌の家たで歩いおいったのか蚘憶は途切れおいる。断片的に残る光景は、圌がここが家家の様子は芚えおいないだず話し、ここで寝おくれずいったのが、星空の䞋の簡易ベッドだった蚘憶だ。私は疲れきった身䜓を暪たえお、すぐ眠りに萜ちた。

翌朝、目が芚めるず驚いた。星空の䞋のベッドは、砂挠の埃っぜさを感じさせながらも気持ちの良い朝の青空の䞋のベッドになっおいた。ふず廻りを芋枡すず、村の子䟛達やら倧人がベッドの䞊にいる私を、珍しい動物がいるかのように、じっず芋぀めおいるではないか。私はただ笑顔を向けた。

圌が名前を曞いた玙をもらったが、今では倱っおしたった、村を案内しおくれた。ずいっおも小さな村だった。子䟛達がぞろぞろ付いおくる。パキスタンの民族衣装を着た若い黄色人皮は奇劙だったこずだろう。初めお村に泊たった倖囜人だったようだ。

圌がここが畑だず蚀っお朚ず朚の間の向こうを指差した。私には、砂挠にしか芋えなかった。↩ 圌がここが孊校だよず蚀っお教えおくれたのは、倧きな朚の䞋にただ怅子が䞊んでいる所だった。緑の倧朚が日陰を぀くっおいた。圌は、ずおも芪切だった。

昌前にモヘンゞョダロに出発するこずになった。私はどうやっお行くのだろうず思っおいた。圌ず圌の人の友人が連れおきたのは、痩せたように芋える頭のロバだった。これに乗っおいく、ずいうような事を圌は蚀った。倧人人がこのロバに乗るのか、ロバが心配だった。倧䞈倫か。

ロバは私たち人を乗せお歩み始めた。ゆっくりず、しかし同じ調子で。↩ 今でもあの情景は忘れられない。蜃気楌のように颚景が蚘憶に焌き぀いおいる。灌熱の倪陜が次第に頭䞊に䞊る。気枩はどんどんず䞊がっおいた。舗装もされおいないたっすぐに䌞びるじゃり道を、人の男がロバに乗り、ぜっくりぜっくりず歩いおいくのを。呚りはただただ砂挠だった。↩䜕時間、乗っおいただろう、圌の友人が「モヘンゞョダロ」ず蚀ったようだ。 ↩向こうの砂挠の䞘の䞊に、なんずなくレンガが点々ずしおいるように芋えた。それがモヘンゞョダロ遺跡だった。

次第に近づくに぀れ、倧量のレンガがころがっおいるのが芋えおきた。私には遺跡ずいうよりも、レンガの廃墟ずしか思えなかった。 ↩いちおうそれなりの平屋の建屋があり、出土した展瀺物が机の䞊に䞊べられおいた。もし、それがなければ、本圓にただの廃墟ず思っおいたに違いない。

圌らずは、遺跡に入る前にわかれた。遠い蚘憶のかなたに、圌らが再びロバに乗り、元来た道をゆっくりず戻っおいくのが、がんやりず芋える。私はい぀たでもい぀たでも手をふっおいた。↩あの時の圌らは今どうしおいるのか。圌らはシンドSindhi人だず蚀っおいた。

圓時はよくわからなかったが、䞻流の政治勢力ではなく抵抗や玛争もあるず蚀っおいた。村の名前は芚えおいないが、再び、い぀か、あの土地を蚪ねおみたいず今でも匷く願っおいる。

2013幎11月蚘

続:  13幎埌の2026幎倏、家の䞭を敎理しおいるず、モヘンゞョダロの写真が芋぀かった。カメラずフィルムを無くしたのは、モヘンゞョダロ以降だった。ここに残す。遠い蚘憶が蘇る。

1984 Mohenjo-daro 1 
1984 Mohenjo-daro 2


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