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「私が通った道」丸山義哉 氏(陸軍少年飛行兵 15期・整備)

少年飛行兵は(時期にもよるますが)基礎教育を修了する頃、適性検査が課せられました。その先の進路、上級校へ進むにあたり「操縦」「通信」「整備」に分けられるからです。
自らの手で大空を自由に翔びまわる夢を抱き集ってきた少年達にとって、それは残酷な選別でもありました。ほとんどの者が「操縦」を志望していた中で、「通信」や「整備」に分科された者たちは、落胆で絶望する日々であったことは想像に難くありません。

書籍にも戦友会誌にも「整備隊」の記載は少ないと感じます。
航空隊の花形は、「操縦」に分科された操縦者(パイロット)であり、あるいは空中勤務者(飛行機乗り)でありました。
その中で、整備隊・整備隊員は、その活躍の場が「縁の下の力持ち」的で見えづらい、分かりづらい活動であったから…とも言えます。
華々しい戦記物に比べ、戦中や戦後も、多くを語らない、語ろうとしない彼らの風潮も感じます。

しかし、彼らも、空中勤務者に比べ給養も恵まれてはいない中、それでも少年らしい一念で、その持てる力を整備に尽くしたと言えます。粗末な食事や宿舎という境遇の中で整備に心血を注ぎ、心を込めて送り出す愛機の帰還を心待ちにしていた、整備兵たち。
その一端を紹介します。

※彼らの名誉のために付け加えますが、戦後、「通信」「整備」の少年飛行兵たちは、身につけた当時の最先端技術を生かし、高度経済成長の波に乗るがごとき活躍した者が多いと言えます。
戦時中の航空隊は、高度な技術を備えた技術者集団でもありました。戦後急激な飛躍を遂げる科学技術や復興する産業の中で、もともと優秀であった彼らの技術が惜しみなく発揮された例は、枚挙にいとまが無いと感じます。

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私が通った道
丸山 義哉 【兵庫】

1 はじめに

その昔、大津校で上級校を決める適性検査で耳の不具合を赤鉛筆でチェックされ、それとなく「操縦志望断念」を宣告された。
所沢整備学校では三中隊で、戦闘機整備を専攻したが戦いに破れ、それから五十余年が過ぎた。

紆余曲折を経て姫路に根を下ろす事になり、父親の死を機会に、先祖の墓を姫路に移した。その墓の横には戦死者の墓がズラリと並んでいる。若くし亡くなった人たちばかりだ、北はシベリアから南はフィリピンまで、兵科はさまざまで、ほとんどが戦争末期に亡くなっている。壮烈な?とは言えない苦しい中での戦死、戦病死であったであろう。

お墓の周辺の枯葉や草取りをしながら、つい戦時中のことが思い出される、油汚れの整備服を着て、明朝までにはなんとか不良箇所の修理を完了して出発に間に合わせなければ・・・と、懸命に取り組んだ事、やっとその機を送りだすと、またすぐ次の飛行機がやって来る。

急降下訓練を終えて掩体に戻って来た機にすぐさま翼に飛び乗り、操縦席に頭を突っ込み油まみれの整備服が計器盤を見ながら異状チェック、操縦士も迎えのトラックが来るまでの時間を新品の飛行服の汚れるのもかまわず、また階級の別なく手伝ってくれる。ときには迎えの車が遅れると翼の下で話しこむこともあった。

振り返って見ると短い軍隊生活であったが、教えられ、鍛えられ、その最終段階での特攻機の整備、手を振って飛び立ち、翼を振って南の海に散った操縦士たち、思い出す度に目頭が熱くなる。

まぶたに焼き付いたこの映像が今日までの生活を支え、物事の判断のベースになったと思っている。操縦士の戦記は多く読ませてもらったが、整備出身の者が書いた油まみれの苦労話は少ない。五十年余り経った今日、「表」の操縦、「裏」の整備、その裏の整備を、ちょっと思い出すままに書いて見たい。思い違いの所があるかも知れないが、ご容赦を・・・。

2 所沢整備学校から独立整備隊へ

反骨精神の盛んな者が多かったのか「(少飛)十五期は程度が悪い」と十期生の先輩班長が週番になるとよく説教された。また十二期の先輩指導兵には、何が何だか分からないまま整列ビンタをくらう厳しい指導。
歯をくいしばり、落伍したら卒業出来んと頑張った所沢整備学校。

中島飛行機製作所で四式戦の研修をして、一独立整備隊に編入、甲種十五期八名と、その機付となる部下を含めた一個小隊。乙種十四期八名からなる後方整備の一個小隊で編成され、戦闘整備もやれば後方整備もやる、機動性のある便利屋部隊で乙種の十四期生とは仕事上ではほとんど接触する事はなかった。

戦隊からの応援要請があれば我々戦闘整備が行く事になっていた。大阪の大正飛行場での戦隊応援を皮切りに、九州をぐるりと回わり、あるときは 山口県の防府にと流れ旅のような、点々と移動しながら、「隼」、「九七戦」を主にした整備を行う。


初めの大正飛行場では、「隼」が回転数の制限を越えて上昇するが、馬力がなく浮上しない、何とも奇妙な機の故障探究を命じられて、発動機の分解をした。ほとんど素人の部下と新米兵長、内心こんなに分解して果して組み立て出来るか?始動出来るだろうかと、十日程の作業の間は不安と悩みは消えなかった。組み立ても完了し始動、快調な発動機の音にホットした。
だが、肝心の故障探究は解明出来ず航空工廠送りとなった。

後日、小隊長から航空工廠でも原因がわからなかったと聞き、ホッとする。

3 初めての同乗飛行

所沢の元中隊長小原少佐殿が三角旗をなびかせサイドカーに乗って面会に来て励まされたのもこの飛行場であった。
戦隊所属の直協偵察機は一機あった、それを小隊長から「試運転して調子を見ておくように」と命令された。直協偵察機の各所の点検も終わったところに、戦隊の中尉が操縦士と共に来て搭乗する、始動、車止外せの合図、そうして手まねで乗れの合図、一度乗せてやろうとの親心かなと思いつつ中尉の服に触 れないよう、油汚れの服のまま小さくなって乗る。

定員オーバーである。いつもは一人で連絡用として使用している機である。 精いっぱい頑張っているエンジンの音は地上で聞くのと異なって心細くなる。 大津校で赤鉛筆でチェックされていなければ前の操縦席に座っていただろうなあ、と思ったりしていると着陸体勢に入った。

どうも飛行場が違う様な気がするが上空から見た事がないので・・・。
着陸後に中尉から、「車輪止めを持って来なかったのか」としかられる。慌てて近くの機のを借用する。操縦士と中尉は連絡業務に行く。
一人になったので近くの整備兵に聞き、ここが伊丹飛行場と分かる。
間抜けな話し、飛行場に帰還すると部下たちがどこかに墜落したのかと心配してくれていた。(なかなか帰ってこなかったため)

私たち戦闘機を整備する者は飛行機に乗る事は皆無で飛び立ってもすぐ降りて来るし、ほんの少しおそくなると事故があったのでは?と心配する。
車輪止め、工具と整備兵はセットであるから、ポンコツに近い機を自分が整備した機に乗れて本当によい思い出となった。

写真は直協偵察機と同型の高等練習機

4 空襲で命拾い

ある日、自分の担当する機が飛び立ち、もう帰って来るころだろうと機付きの部下と話し、一人が格納庫から出て見上げながら「アッ帰って来ました」の声で、車輪止め、工具類を分担して持って飛行場に出た。
「脚を出すのがおくれているなア」、と言ったその時、その飛行機から、バリバリと機銃が火を吹きながら私たちに向かって来る
「アカン、グラマンだツ。右側のコンクリート」と言うのがやっと。

横飛び に格納庫の基礎コンクリートにへばりつく。
地面のコンクリートにビショビシット当たる音。引きずる様な爆音を残してグラマンが上昇するうなり。旋回中の操縦士がハッキリと見える。

二機にこの格納庫が狙われている。
「また来るぞ反対側のコンクリートにひっつけえ!」と叫んで飛び込む。
日頃は緩慢な動きの部下も仲々のもの。三回機銃掃射をし、何機かの格納中の飛行機に損害を与えて飛び去った。
もし四機で波状攻撃をされていたら、完全にあの世にいっていただろう。
大阪の市街に日本機が墜落して操縦士が死亡したので独整(独立整備隊)の同期の者も救助に走った。

5 機体修理の苦労

宮崎県の都城では、お寺を宿舎として居た時だった。山口県の防府に我々戦闘整備の隊だけが戦隊の応援に呼び戻された。大阪の大正飛行場と同じ戦隊で、自分に割り当てられた機は、着陸の時に尻餅をつき尾翼付近破損のため、多くの破損機の中から良いのを選んで、取り替え修理する作業だった。
日中の暑い最中に、点検孔から胴体の中に腹ばいになったままで、裸電球の手持灯を付けての作業。
ボルト、ナットの取付孔の加工から取り付け、現在の様に種々の工具がある中での修理ではなく、貧しい工具の応用での作業、汗が目に入って見えない。
部下と交代して作業する。ボルトの螺子山が破損して取り外すことも、締める事も出来なくなったのが一本あった。約八十本中の一本の不良だった。
小隊長から「もう直ったか、」と催促しきり。
方向舵、昇降舵の調整を終えて「修理終わりました」と報告。試験飛行となる。

テスト操縦は先輩がするらしい。黙って答礼をして搭乗、頭上でのテスト飛行、水平飛行は見ていても気持ち良かった。
宙返りを始め、あらゆる高等飛行をやる。
初めて見る見事な飛行。
あの一本のボルトが頭から離れない。
操縦者を始め、整備のみんなが見上げている。
私は内心、心配で顔色は無かったと思う。無事着陸「ああよかった」。
先輩は答礼を残して何も言わずに、ピットへ。
大きな声で「異状なし」の報告。ヤレヤレと胸をなで下ろす。
一つずつ、くそ度胸をつけてゆく。

またある日、電気系統の故障で困っていると、特操(特別操縦見習士官)出身の操縦士が
「戦隊で電気故障修理中の先輩が近くの機を修理しているから頼んでみたら」と教えてもらう。
早速、依頼に行く。
「十五期の丸山です、見て頂けませんか」と言って状況を説明すると、仕事を中断しテスターを持って応援に来てくれた。

少しの時間で修理完了。
「オイ直ったぞ」
「有り難うございました」
「うん」

それだけ言っただけで、先輩の技術の素晴らしさに感心する。
部下も
「先輩がおられて良かったですネ」
「ほんまだなア」
うれしく気持ちが明るくなった。そのとき知らせてくれた特操出身の操縦士も 少年飛行兵を受験し不合格になった過去を持つ少尉であった。なにかと気をつけてもらって感謝している。

独整は先輩がいない新設の隊である。それだけ戦隊の少飛出身の先輩は事情を知って気にかけてくれたのではないかと思う。
常にプライドを持って 少飛出身の名を汚す事がない様にと、うるさい存在であった。
応援先の戦隊長から、頼りにされた言葉を上司から聞き、責任を感じ、
「頑張ろう」とみんなで話し合った。
その事を戦隊の操縦の先輩も思っていたのではないかと思われる事が度々あったがここでは割愛する。

6 ケンカはしていたが、戦隊では同志

また都城に帰って、週番下士官になり、命令受領に行き歩いて帰隊途中、将校と三、四人の兵を乗せたトラックに追い越される。
慌てて敬礼、その中尉は荷台から運転台をたたいて止め、私の近づくのを待ってくれた。
「乗れ」の合図。
その場所をあけて乗車させてくれる。
「宿舎はどこかな」
「学校に居た時は、よおけんかしたなあ、元気でやっているか」
友達に言うように言われた。

そう言えば所沢整備学校の近くに、航空士官学校があり少飛とは外出先でよくけんかをしたそうだ。
そのくせ、卒業して配属先では 仲よくなるとの事。
運転席に兵隊を座らせて、中尉は荷台に乗っている。
私の宿舎方向との分岐点に来たので降りるさい
「お互いに頑張ろうなア」
「ハイ」と言って別れた。
色々な会話をしたが、こまかいことは覚えていない。
私が少飛出身である事がどこかでわかったのか不思議だった。

7 特攻機の整備

しだいに戦況は悪化してきた。
飛行場から離れたあちら、こちらの山すそにポツポツと掩体(飛行機を敵の空襲から守るため、隠しておく場所)が点在して、その中に特攻機を格納し、特攻要員がトラックで機を取りに来て、地上滑走で飛行場まで行き、 急降下訓練の実施する。
帰って来ると、状況を聞いて修理と調整、時には両翼に整備が乗り手合図をしながら行く事がある。
飛行機を受け取る時、何日の何時までに整備を完了する様に言われ、状況を判断しての出発となる。夜中まで修理する事はよくあった。

その特攻機が沖縄に向け飛び立つとすぐ次の特攻機がやって来る。
油漏れが非常に多くて二次故障、三次故障が発生する。
私たち同期の八名は、
「せめてパッキンを取り替えたら油漏れが止まる機が欲しい、油漏れのない機に乗せて行かせてやりたい」、
と よく言ったものだ。
独整の隊長、土方大尉も、
「せめて死を覚悟でいく者に油漏れのない機に乗せてやりたい」
といわれていた。

資源のない国の悲哀を感じる。
好調な機であったなら、持てる技も十分発揮し、戦果も挙がり死に甲斐もあったであろうと今でも思う。

8 同期生の特攻隊員と

急降下訓練を終えた特攻隊員が、迎えのトラックがおくれ、時には翼の下で直射日光を避けながら、
「服がよごれるから、この布を敷けよ」
と機体をふくボロ布を渡してくれた。

並んで腰を下ろして話し込む。
「俺が死ぬ事によって、親や兄弟、みんなの生活がよくなるのであれば、おれは本望と思わなければならん」
そうしてどのようにして敵艦に突っ込んで行くか。
無線の音が消えた時は相手に命中した時だなどなど・・・。
(注:突入の時は、無線のキーを押しながら突入をする。モールス信号の無線の発信音が途切れた時が、突入の瞬間である)

「二時間だけ故障が起こらんようにしてくれ、頼む、おれは編隊の最後尾になる、後に食いつかれたらどうにもならんからなぁ」
と、同期生の言葉。
「整備はよく汚れるから、おれの下着類を出発の時に持って来るから着てくれ、拳銃以外はもういらん、金も残っているからやるよ」
「いや金だけは身につけて行けよ、下着類はもらって着るからなあ」
など冷静に淡々と話し合う。

そうして出撃の時、約束通り持って来た。
飛行場で手を振る。彼は、翼を振って別れを告げる。
宿舎に帰り、無線による報告を待つ。
独整の隊長の顔色を私たちは気にしながら、同期生の突入の戦果を聞く。

(後略)

丸山義哉 伍長は、少年飛行兵(少飛)15期(甲種)
東京陸軍航空学校大津教育隊(後に大津陸軍少年飛行兵学校に改称)卒。
知覧飛行場では特攻機の整備に携わり数多くの特攻隊員を見送る。
幾たびの空襲、敵機からの機銃掃射を受けながら無事復員する。


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