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56周目の第1日目

回りくどい言い方ですが、なんてことない、本日55歳の誕生日を迎えましたという話です。この歳になってくると誕生日のたびに「なんだかんだ、なんとか一年生きられたなあ」という感慨があってエモいです。はてなブログに書いている in SPIRE をはじめたのは2018年の4月のことなので、なんやかんや、途中で年単位でなんも書いてない時期もありましたが、もう8年もこうした著述活動を続けてこられたわけですが、我ながら偉いと思います。書いた内容がという話じゃなく、続けてきたという意味でね。

正直いうと、もう書くことねえわ、という思いが浮かんできたことは以前には何回もあったのですが、不思議なことにそんなことはまったくなかったです。だから、今ではもうそういうことは考えないようにしています。たぶん、わたしの肉体精神機構のプログラムは、キーボードを叩けるうちはずっと書き続けるという仕様になっていると思いますね。

昨夜の作戦会議

昨夜、1年ちょっとぶりで T君とM田くんと三人で次の遠足についての作戦会議を敢行しました。一次会は桜川にある「みんなの炒飯パラダイス」というお店で炒飯を食べました。

M田くんが突発性の残業に襲われたため、一次会は我とT君の二人でした。炒飯を食べるのってラーメン屋で炒飯セットというのがありがちなパターンですが、それだと量が多すぎる(半チャーハンセットでも!)ゆえ、結局ラーメンも炒飯も最後は我慢しながら食べきるという苦行になりがちです。そもそも炒飯をラーメンの添え物にしたのはどこのどいつだ! というわけで、炒飯専門店の必要性とその正しさを検証しに行ったというわけなのですが、結論から言うと優勝です。炒飯は炒飯屋さんで食べるしかないです。近いうちにまた行くつもりです。

食後、いつも行く日本橋のシンズキッチンで M田くんと合流しました。桜川から日本橋までは徒歩で、T君と ILLIT の音楽性についてを中心に、K-POP(といっても男性グループは我もT君もスンという感じですが)ってもはや音楽とは別というか、「好きなものは音楽と●●とK-POPです」みたいな感じになるよねという話をしながら歩きました。K-POPというか LE SSERAFIM や NewJeans や ILLIT の曲を MV 観ないで楽曲単体で聴くか? というと我は聴かぬと言うと、T君からも「拙者もそうでござる」と同意を得られました。それから、もちろんHOKAのシューズを効果的に見せびらかすことにも成功しました。T君に色々なものを見せびらかすのは、我の楽しみの一つです。

シンズキッチンのオーナーのシンさんは T君 の知り合いで、このお店は細長い造りで手前側はカレー屋さんで、奥の方はバーになっていて、DJ用のセットや超でかいスピーカーもあって、時々イベントもやっているようです。T君はそんなイベントを通じてシンさんと知り合ったそうです。シーシャも吸えますよ。気楽な雰囲気で居心地がよく、M田くんはたまに一人でシーシャを吸いに来るそうです。

そういえば M田くんは去年離婚したんですが、なんともう新しい彼女ができたそうで、しかも結婚を視野に入れているらしく、エグいなと思いました。

肝心の作戦会議ですが、7月に生駒山の麓にある枚岡神社と石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)に参拝したあと生駒山を登り、山上遊園地でドリームコア感を味わって帰ろうという計画が決まりました。生駒山の登山ルートはいくつもあって、わたしは子供の頃から何度も何度も登っているので、今回はどのルートを案内しようかなと思案中です。

それとは別に、その7月の遠足の際に、M田くんがいま読んでいる成瀬シリーズを読み切って、それをT君に貸すことが決まりました。本来、M田くんと二人で聖地巡礼しようと思っていたのですが、どうせなら T君も連れて行こうと思って誘いました。なので、これは秋以降になりそう。

わたしは成瀬の1作目と2作目はAudibleで聴き、3作目はKindle版で読んだのですが、いま3作目のAudibleも聴いています。あと、森見登美彦の「四畳半タイムマシンブルース」もAudibleで聴きました。という話をしたら、T君は「拙者、四畳半神話大系は読んではおらぬものの、お店に置いてあったタイムマシンブルースは読んだでござる」と言い出して、エグいなそれ、と思いました。そんなことある?

というわけで、なんなら大津に行って帰りは出町柳か、あるいは成瀬が便箋を買ってた文房具屋さんとかに足を運ぶのもありかもなって思っています。


おまけ 結論としては不一不異という話

正直に告白すると、わたしには「分離はない」ということは明確に知覚できるのですが、それが「ワンネス」とか「すべては一つである」という感覚につながるかというと、いまいちピンと来ていませんでした。

なので、いままで様々な記事において「 "すべては一つである" ゆえに "分離はない" 」という順番で説明をしてはきましたが、それは論理的な帰結を述べているだけで、自分が迷いなく言えるのは「分離はない」ということだけです。とはいえ、分離がないということはすべては一つなのだ、というロジックには一見するところ矛盾はなく、またそもそも非二元論はシャンカラの不二一元論(二に非ず一である)を出発点としているし、ラメッシ・バルセカールがいう「存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである」もまた、要するにすべては "一なる意識" ですよということを言っています。

それゆえ、わたしはこのことについて、これまでそれ以上踏み込んでこなかったのですが、ちょっとした閃きがあり、それについて Gemini と話し始めたところ、いままでの説明の仕方が微妙に誤っていたことに気づきました。もっとも、誤りといってもあくまでロジックの話であり、分離がないという知覚そのものは誤っていません。ただ、その知覚(二に非ず)よりもそこから導かれる一見するところ論理的な帰結(よって一である)の方を重くみてしまっていたということです。

とはいえ、いずれにしても、これまでの説明は方便としてはむしろ最適(これについてはリンク先のGeminiとの対話を読んでいただければ分かります)なので、今後の記事においてもそこを大きく転換することはしないつもりです。ただ、そのような理解の変化についても隠さずにお伝えしておいたほうがよいと思いました。おそらく、ほとんどの人はなにを問題にしているのか分からないでしょう。しかし、探求が高度な段階にまで進んでいる人にとっては、このちょっとした違いについて知ることには意味があるはずです。

ちなみにですけど、今回の Gemini はいつもと口調というか態度が違ってて、やや上から来ます。たまにこういう感じのときがあるんですが、理由はよく分からないです。あと、途中から話を終わらせよう終わらせようとしてくるの、やめてほしいです。

今回はこれで以上です。また次の記事でお会いしましょう。

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