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他人の幸せに干渉してはならない

その幸せを享受している人が幸せだったら、それで良い
という話である。

以前、友人から相談(というか話の流れでの雑談)があった。
どうやら幸せとは何かの話に発散させていたようだ。どうやらその人は何かしらでの形での幸せの在り方を持っており、周りにそれをがみがみ言われるのは嫌なようである。
と言いながらも、彼はその後、周りの人が持っている幸せの在り方に対し、苦言を呈していた。

幸せの在り方は人それぞれである。沢山の金銭または資産があるという状態が幸せだという人がいれば、社会的ステータスが高い会社で働くことが幸せだという人もいる。
実家で犬と遊んでいる状態が幸せだという人もいれば、旅行をしているという状態・または旅行の予約をしたその瞬間が幸せだという人もいるだろう。
もう少し小さなことでも、ファミリーマートでファミチキを買って店前で食べる瞬間が幸せだという人もいれば、燃えるゴミを捨てる日にぱんぱんにゴミをため込んだごみ袋を見て幸せに感じる人もいるかもしれない。

人生は個人が希求する幸せの在り方を実際に体現することで色味を増していく。
人生の中で幸せを感じる瞬間がないのであれば、それは生きているとは言い難いだろう。

幸せの在り方はいたく複合的なものである。それは仕事・生活などのカテゴリーに分けて議論することすら難しい。なぜなら我々が理解している幸せの在り方は我々ですら限定的なものだからである。
我々は「これが幸せ」という幸せの類は必ず具体例である。少しでも抽象的にしようとすると、自分が幸せでないと思うことも幸せに組み込んでしまう恐れがある。ファミリーマートの店前でファミチキを食べるから幸せであるのであって、パン屋さんの店前でパンを食べることが幸せにはならないかもしれない。ファミリーマートの店前でファミチキを食べるから幸せであるのであって、セブンイレブンの店前でななチキを食べることが幸せにはならないかもしれない。

だから、どこまで行っても幸せを定義するときは具体的なものになる。通常の思考過程では、そのような幸せをボトムアップで積み重ねてその総体を築いていくが、幸せに関してはそれができない。ボトムアップをするためには帰納が必要である。ある幸せ公式に対して、n=1も言える。n=2も言える。n=kもn=k+1も同様に同じことが言えるから、だからこの幸せ公式は成り立つ。という証明になる。
だが、幸せに関してはそれができない。

だから、幸せを享受する本人ですら、何が幸せなのかの全体を明らかにできていないのである。
そのような状態の本人に、(本人のことですらろくに知らない)他人がぐちぐち言うのはお門違いという話。

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