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旅する美術館、知らない背中。

美術館へ行くと、どうしてか“背中”を追ってしまう。

その人がその街の住人なのか、
どこかの空港から流れ着いた旅人なのか、
背中だけではわからない。

▲ 知らない背中ひとつで、絵の時間が少し変わる。
(Belvedere, Wien)


クロークに荷物を預けると、
みんな身ひとつ。

名前も、
帰る家の匂いも、
小さな後悔まで、
いったん遠くへ置いて。



▲ そうして残る
──ひとつの背中。
(Leopold Museum, Wien)


そして、背中と絵のあいだには、
よそゆきの沈黙がただよっている。

二人並んで立っていても、
となりたった数十センチ横では、
べつの季節が流れているみたいで。


▲ 春と秋とか。6月と11月とか。
(Leopold Museum, Wien)
▲ エゴン・シーレの黒と、それぞれの孤独。
(Belvedere, Wien)


美術館の屋根の下には、
こうやっていくつもの季節が居合わせる。

どれも自分とはちょっと違っていて、
でも、知っているような気配もあって。


▲ 収穫の季節に熟れていく赤いスカート。
(Brera Art Gallery, Milano)



たまたま居合わせた背中からただよう誰かの暮らしの匂いは、
いつも無責任に、いい香りがする。

▲ まだ知らない景色に、体が先に挨拶する。
(Leopold Museum, Wien)


とある絵の前で、
まったく知らない人同士のはずなのに、
立ち止まる場所や、
顔の向け方や、
なんでもない手の動きが、
ふと、重なってしまうことも多くて、それも楽しい。

▲ クリムトの絵で、“余韻”が伝染していく。
(Belvedere, Wien)


たまたまなのだと思う。
でも、掛けられた絵と、
それを見ている人の服装が
きれいにリンクしていることがあって、
その瞬間も、どうしようもなく楽しい。


▲ 水色が、 二人の洋服に染み出しているみたいで。
▲ 緑に染められたポロシャツ。
▲ まるで鏡越しの背中。
(Leopold Museum, Wien)




そんなふうに、
人の背中を見ているとき、
私はときどき、
これに少し似た気分を知っている、と思う。


▲ 今夜は赤にしようか、白にしようか。
(Fotografiska, Stockholm)


──美術館で誰かの背中を追うときの気分は、
誰かのエッセイを読んだり、
実際に会ったことのない方の日記を読むのと似ている。


▲ ブリューゲルの冬景色に、夏の温度。
(Kunsthistorisches Museum Wien)


いつも、ほんのすぐ隣に、
誰かの“今日”が置かれている。

でもいつだって季節は違っていて、
その距離が、
とてもいいなと思う。

▲ 距離は壊さず、背中を追う快楽。
(Uffizi , Firenze)



それは、誰かの暮らし。
たぶん一生、
言葉を交わすことのない誰かの日々の色。

それは、
自分が選ばなかった道かもしれないし、
着ることのない服なのかもしれない。

▲ ひとつの背中、ひとつの明日。
(Brera Art Gallery, Milano)


知らない誰かの日々に、
憧れはなく、まして嫉妬もない。
ただ、そういう暮らしが、
どこかで今日も続いているのだと思うと、
その背中は、なんだかあたたかい。


▲ 背中を追う私の背中を、ピカソが見ていた。
(Picasso Museum, Barcelona)


どんなに低い確率で、
世界のどこかから集まって、
同じ日、同じ時間に、
同じ絵の前に立っていたとしても、
数十センチ先の背中は、
いつも、ちがう季節を過ごしている。


▲ 知らない誰かの“今日”に、そっと混ざる。
(Uffizi , Firenze)


そしてときどき、
自分の背中もまた、
誰かに、同じように見られているのかもしれない、
と思ったりする。


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