男女差別??【エッセイ】一六〇〇字
TOP画像。
太地喜和子。俳優座出身。彼女は、好きな「女優」のひとりだった。
偶然決めた自宅の近くにある新宿区立牛込仲之小学校に通っていた。
自分は、いわゆるリベラルな立ち位置にある。人権は最優先されるべきもので差別は許されない、と思っている。
その前提に、揺らぎはない。
ただ、考えていて、ふと引っかかることがある。男女のあり方についてだけは、自分の感覚が少し違う方向を向くことがあるのだ。
かつて「スチュワーデス」と呼ばれていた職業は、いまでは「キャビンアテンダント」になった。「看護婦」は「看護師」に変わった。「保母」は「保育士」に、「女工」は「工員」へとなり、姿を消した。
いずれも、特定の性別を前提とした呼称を改める流れの中で生まれた変化である。時期としては、一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、一気に進んだ印象がある。
この変化そのものには、強い違和感はない。むしろ、当然の流れだとも思う。だが一方で、すべての言葉を同じ方向にそろえる必要があるのか、とも感じる。
たとえば「女優」である。近年では、「俳優」と統一する動きが見られる。だが、「女優」という言葉が持っていたニュアンスまで消してしまってよいのだろうか。
演技には、性別に由来する身体性や表現の違いがある。それを一括して「俳優」と呼ぶことで、かえって見えにくくなるものもあるのではないか。
評価の問題である。区別は差別ではない。しかし、その線引きは容易ではない。さらに言えば、言葉の細部にも同じ傾向がある。
「彼ら」と書けばよいところを、「彼・彼女ら」と言い換える。
配慮としては理解できるが、そこまで細かく分ける必要があるのかという疑問も残る。言葉を整えることが、かえって思考の自由度を狭めてしまうことはないのか。
もちろん、男女差別はあってはならない。この一点は動かない。また、LGBTQ+の考え方についても、社会が受け入れていくべきものだと思っている。
ただ、そのうえでなお、考える。
「女性らしさ」や「男らしさ」という感覚まで、すべて否定する必要があるのだろうか。
たしかに、それらの言葉は、過去において固定的な役割を押し付けるために使われてきた。
その歴史は無視できない。だが同時に、それらは個人の表現や魅力として、自然に立ち現れるものでもある。それを一律に排除しようとすると、かえって人間の幅を狭めてしまうようにも思える。
ここには、どこかアンビバレントな構造がある。
人類は、戦争や環境破壊、感染症、資源の枯渇といった、存続を脅かす問題を抱えている。それらは、明らかに「減少」の方向へと向かう力である。
一方で、価値観の多様化や個人の尊重は、人類が進めてきた流れでもある。LGBTQ+の広がりも、その延長線上にある現象だろう。
しかし、その結果として、性の境界が曖昧になっていくとしたら。それは、「種の保存」という観点から見れば、逆方向の力として働く可能性もある。
この二つは、矛盾しているようでいて、同時に存在している。
進歩と存続。拡張と収縮。どちらか一方に単純化できる問題ではない。だからこそ、立ち止まって考える必要がある。
差別は否定する。だが、違いまで消し去るのか。その違いは、本当に不要なものなのか。あるいは、人間という存在を形づくってきた要素の一部ではないのか。
私は、リベラルを自認する。だが、自分の中に保守的な感覚があることも、否定できない。その違和感を、いまはそのまま引き受けている。
(ふろく)
昨日の「東京新聞」朝刊一面トップの記事である。

東京新聞の問題提起は、重要な論点を含んでいる。
伝統芸能の世界において、性別による制限をどこまで認めるべきか、という問いである。
歌舞伎の「女形」に限って言えば、これは単なる役割分担の問題ではない。男性が女性を演じること自体が様式として確立された芸であり、その意味では「男が演じる芸術」として成立してきた経緯がある。したがって、この領域に性別制限があること自体は、直ちに不合理とは言い切れない。
しかし、今回問われているのは「国立劇場養成所」の研修生募集である。ここには、公費が投入されている。そうである以上、機会の平等という観点は避けて通れない。
女性であっても、女形を研究し、実践したいと考える人は当然存在する。その入り口の段階で門戸を閉ざすことは、芸のあり方とは別の次元で問題をはらむ。
伝統を守ることと、機会を開くことは、必ずしも同じ方向を向かない。だが、その緊張関係を引き受けることこそが、現代における伝統のあり方ではないだろうか。
(おまけ)
本日はここで(おわり)の予定だったが、きょうの「東京新聞」に目を通していると、これがあった。
やはり「怖いお姉さま」とは、何かでつながっているのだろうか。(◎_◎;)爆

