蛇と鶏
必ずしも親子で気が合うとは限らない。
その結論に達するまで、ほんとうに長くかかった。
両親と、特に母との価値観が圧倒的に違うことを悩んでいた時期、ある話を見かけたことがある。釈迦の逸話だ。
若い母親が乳飲み子を連れて、釈迦の説法に参加していた。ありがたい説法に耳を傾けたいのに、話の一番大事な局面に差し掛かると、抱いているその子が火がついたように泣き始めてしまう。釈迦はその度、「その子を捨てなさい」と母親に言った。
慈悲深い釈迦がそんなことを言うなんて、と母親は訝しがり、当然我が子を捨てるなんてことはしなかった。だが、その後も説法のたびに赤子は泣き、やはり中座させられてしまう。釈迦は同じように静かに「その子を捨てなさい」と言う。
何度か押し問答が繰り返されたが、やがて若い母親は、意を決して説法を邪魔する我が子を崖から海へ投げ入れた。すると、どうだろう。暗い海に落ちていく幼い赤子の顔がものすごい形相に変わり、話せないはずのその口から「生涯取り憑いて苦しめてやろうと思ったのに・・・」という呪いの言葉が絶叫と共に吐かれた。赤子は海に落ち、消えた。
残された母親に釈迦は「あなたの子供は、前世であなたに殺され恨みを持った者の生まれ変わりだった。恨みを晴らすため、今世ではあなたの子供に生まれ変わったのですよ」と教え諭した。そう伝わる。
なかなかにハードな物語だ。
親子に生まれる前からそんな因縁があるだなんて、にわかには信じ難いし、今を生きているのに前世のことを持ち出されるのもおかしな話だ。
だが、ここには一つの真理が含まれる。親子のどうにもならない確執は、きっと遥か遠い昔からあったのだろう、ということだ。
釈迦が言ったとまことしやかに説くことだって後の時代には珍しくないから、もしかしたら誰か他の人が言ったことかもしれない。きっと釈迦の名前を引っ張り出してまで言及したかった、親子の葛藤だ。
いずれにせよ親子の軋轢も葛藤も、令和に始まったことではなく、さほど珍しいことでもない・・・そう考えるだけで私はいくらかほっとできた。
親にいいようにあしらわれていても、私が特別に不幸なわけではない。自分を仇なす相手は、たとえ肉親であっても「捨てて」いい。
子にとって、そんな昏い考えにたどり着くのは、不幸で不遇で、そして寂しいことだ。だが、同時に生きていく知恵でもある。少なくとも私には。
自然界ではあり得ないが、人間界では蛇が鶏を産み、逆に鶏が蛇を産むことがある。
蛇がどんなに鶏を愛しく思って抱きしめようとしても、ひよこはぐるぐるに締め付けられて苦しいだけだ。抱きしめるその腕を緩めてやらなければ、いずれひよこは窒息してしまう。
鶏がどんなに蛇を愛しく思ってその羽の下に抱えようとしても、小さな蛇は他のひよこと同じようには育たない。やがて成長した後、鶏を食い殺すようになるかもしれない。鶏は、可愛がって育てた蛇に、丸呑みにされていく。
やはり、蛇と鶏は、お互いに距離を取るしかないのだ。蛇は蛇の世界で、鶏は鶏の世界で生きていき、その世界は決して交わらないほうがお互いのためだ。
できれば仲のいい親子になりたかったと思う。
それでも、譲れない「分」があり、種族が違うと感じるなら離れて生きていくしかないと私は思う。ただただ、むずかる私を暗い海に捨てずにいてくれてありがとうと礼を言い、生きていくしかない。そう思うのだ。
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