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星マリアの哲孊的芖点から読む易経Ⅰ

プロロヌグ

易経は「占いの曞」であり「哲孊の曞」

易経は、䞍思議な曞物です。
占いのテキストずいう顔を持ちながら、
哲孊曞でもあり、
儒教の経兞であり、
凊䞖の智恵の曞であり、
そしお道の曞でもありたす。

そしおこれは、
40幎皋易経を孊んできた私自身の、ひず぀の結論です。
易経は、
答えを䞎えるための曞ではなく、
寧ろ問いをどこに眮くべきかを瀺す曞なのではないか。
そんな感芚が次第に、
私の䞭で確かなものずしお育っおいったのです。

私たちはい぀の間にか、
「䜕が起こるのか」
「どうなるのか」
ずいう予蚀のような問いに慣れすぎおしたいたした。
未来を知るこずが安心に繋がり
答えを持っおいる
預蚀予知できるこずが匷さであるかのように
感じおしたう時代に生きおいたす。

しかし易経が瀺しおいるのは、
「未来」そのものではなく、
今、どこに意識を眮いお䞖界を芋おいるかを
瀺す曞なのではず思うのです。

䟋えば、
半は未来を決め぀けるものではなく、
象は圢を説明するものでもなく、
倉化は出来事の予枬ではなく、

それらは党お、私たちの意識が、
どこに立ち、どの方向を向き、
どの䜜甚ず同䞀化しおいるのかを映し出すための
䞀皮の「地図」なのではず思うのです。

けれども私を含め、珟代を生きる倚くの人々は、
知らず知らずのうちに、
いく぀かの生き方の癖を身に぀けおいるように思いたす。

ひず぀は、
出来事の流れに身を委ねすぎおしたい、
自分は倖の状況や感情に巊右される存圚なのだず感じおしたうこず。

もうひず぀は、
考えるこずに重心を眮き、
理解し、敎理するこずで人生を進めようずする姿勢です。

これらは決しお「間違い」ではありたせん。
けれど、
それだけでは䞖界は平面的になり、
自分自身の䞀郚にしか觊れられなくなっおしたうように思うのです。

易経は、そうした前提をそっずずらしたす。
善悪でもなく、成功倱敗でもなく、
「今、どの局時、凊堎所、䜍立堎立ち䜍眮から䞖界を芋おいるのか」
を私たちに問い盎させるのです。

故に私は、易経を哲孊ずしお読み盎したいず思いたした。

易経は思玢のための曞。

自分が今、どこに立っおいるのか。
どの堎所で生きおいるのか。
どの時にいるのか。

その問いを眮く堎所を、そっず瀺しおくれる
それが、私にずっおの易経です。


第䞀章 â€• 私たちは、䜕ず同䞀化しお生きおいるのか

私たちはおそらく、
自分のこずを「感情」や「思考」で動いおいるず思い生きおいたす。

嬉しいから私は幞せ。
䞍安だから私は匱い。
心配で考えがたずたらない私は䞍幞せ。

そんな颚に、
その時々に浮かんだ感情や考えを、
そのたた「自分自身」だず信じおしたう。

けれど人生を長く生きおいるず、
どうしおも説明の぀かない瞬間に出䌚いたす。

感情は荒れおいるのに、どこか冷静な自分がいる。

考えは混乱しおいるのに、
「今は埅ったほうがいい」
ず、冷静にわかっおいるもう1人の自分がいる。

それは䞀䜓、誰なのでしょうか。

易経を孊ぶ前から、私は人生の䞭で
䜕床もこの感芚に出䌚っおきたした。
易者ずしおお客様のお話を聞くずきも、
自分自身が苊しみの䞭にあったずきも、
い぀もどこかに、
感情ずも思考ずも違う「冷静に芋おいる堎所」があったのです。

倚くの人は、
人生が苊しくなるず
「もっず匷くあらねば」
「前向きにならなければ」
「感情に流されおはいけない」
ず思いたす。

けれど実は、
問題は感情や思考があるこずではなく
それらず完党に同䞀化しおしたうこずなのではず思うのです。

怒っおいる「私」
傷぀いおいる「私」
倱敗した「私」

そう名づけた瞬間、䞖界は䞀気に狭くなりたす。
自分が、たった䞀぀の状態に閉じ蟌められおしたうからです。

易経は、この状態を吊定したせん。
感情も、思考も、人生に必芁な䜜甚だず知っおいたす。

ただ、それらを「自分そのもの」ずは芋なさない。

易で半を立おるずき、
そこに珟れるのは
「あなたはこういう人です」
ずいう刀定ではありたせん。

珟れるのは、
今、あなたがどの䜜甚ず匷く結び぀いお生きおいるか
ずいう「圚り方」です。

人生のある時期には、感情が前面に出るこずもありたす。
別の時期には、思考だけで進もうずするこずもある。

どちらも自然なこずです。

けれど、
もし人生が重く感じられるなら、
䞀床だけ問い盎しおみるず良いかもしれたせん。

私は今、感情そのものに動かされおいないだろうか。
思考の䞭に閉じこもっおいないだろうか。

そしお、それらを「冷静に芋おいる堎所」は、
今どこにあるのだろうか。

易経が指し瀺しおいるのは、
「倉化せよ」ずいう呜什ではなく
「気づこうよ」ずいうサむンのようなものかもしれたせん。

気づいた瞬間、
ほんの少しだけ、
自分の人生ずの距離を取り戻せたす。

それだけで、䞖界の芋え方は倉わり始めるのです。

第二章 â€• 半は未来ではなく圚り方を瀺す

易経に初めお觊れた人が、よく口にする蚀葉がありたす。

「この半を埗たからこうなるのだろう」

その気持ちは、ずおもよくわかりたす。
人は、未来を予枬したい生きものだからです。

けれど私は、半を未来ずしお読む床に、少し立ち止たりたす。

半は、未来を決めるものではなくお
たしおや、人生を瞛るものでもない筈。

半が映し出しおいるのは、
今の自分自身の“圚り方”ではず思うのです。

たずえば人生には、
自分で抌し出しお行く時期がありたす。
考えお、決めお、動き、切り開く。

反察に、受け止めるしかない時期もありたす。
埅぀こず、耐えるこず、流れに身を委ねるこずが必芁な時期です。

同じ人であっおも、人生の堎面が倉われば、
前に出る力が匷くなるこずもあれば、
内に籠もる力が前面に出るこずもある。

半が瀺しおいるのは、その力の出し方です。

今、前に出おいるのはどの力か。
今、埌ろに控えおいるのはどの力か。
どこが過剰で、どこが䜿われおいないのか。

その瞬間の力の入れ具合、圚り方を瀺しおいるのではず思うのです。

人生がうたくいっおいない時、倚くの人は自分を責めたす。

「私のこういうずころが良くないから」
「私にはこういうのに向いおいないから」
「私はこういう人間だから仕方ない」

けれど、本圓にそうでしょうか。

もしかするず、それは良くない、ダメなのではなく、
その時の力の入れ具合、圚り方が合っおいないだけかもしれたせん。

本来、前に出る力を持っおいる人が、
ずっず受け身でいなければならない堎所にいる。
本来、支える力を持っおいる人が、
無理に先頭に立たされおいる。

その違和感は、圚り方の問題なのではず思うのです。

易経は、「倉化」の曞であり、
倉化しないものはないず蚀っおいたすが
私たちに「倉化せよ」ずは蚀いたせん。

代わりに、
「今、どう圚るのが自分にずっお自然なのか」
ずいう、圚り方を瀺しおいるように思うのです。

半を読むずいうのは、
自分の未来を決め぀けるこずではなく、
自分の圚り方時、凊堎所、䜍立堎立ち䜍眮を確認するこずです。

今は、前に出る時なのか。
今は、退く時なのか。
今は、立ち止たる時なのか。
それずも、流れに乗る時なのか。

その「時」の「圚り方」がわかるだけで、人生は少し楜になりたす。

「私はこういう人間だから」
ずいう蚀葉の代わりに、
「今私は、こういう立ち䜍眮にいるのだ」
ず蚀えるようになるからです。

圚り方は、い぀でも倉わりたす。

それが、易ずいう曞が䜕千幎も読み継がれおきた理由なのだず、
私は思っおいたす。

第䞉章 â€• 象は圢を越えお語りかけお来る

易経を読んでいるず、ふず立ち止たる瞬間がありたす。

倩、沢、火、雷、颚、氎、山、地
そこには、説明も理屈もありたせん。
あるのは、ただ自然の姿だけです。

最初は、
「これはどういう意味なのだろう」
ず、誰もが考えたす。

けれど易経は、意味を教えおくれたせん。
代わりに「象」を差し出したす。

䜕故でしょうか。

それは、人の人生が、
思考だけで動いおいるわけではないからだず思うのです。

私たちは日々、頭で理解できないこずに出䌚いたす。
理由はわからないけれど、この道は違うず感じる瞬間。
説明できないけれど、今は動くべきではないずわかる感芚。

それは思考よりも先に、身䜓や感芚が反応しおいる状態です。

易経の象は、その感芚に語りかけおきたす。

雷ず聞けば、
私たちは身䜓が少し緊匵したす。

山ず聞けば、
動きを止める感芚が生たれる。

氎ず聞けば、
流れるずいう感觊が立ち䞊がる。

象は、
理解される前に、感じられるのです。

易者ずしお人の話を聎いおいるず、
この感芚がずおもよく䌝わりたす。

蚀葉では敎理できおいないのに、
心の奥ではすでに答えを知っおいる人がいる。

頭では「進むべきだ」ず蚀っおいるのに、
心の奥が重く、足が前に出ない人がいる。

易経の象は、そうした心身の声を無理に蚀語化したせん。

ただ、
「今は雷の時」
「今や山の時」
ず瀺すだけです。

だから象は、
答えではなくお
力であり方向であっお、圚り方なのではず思うのです。

象を読むずいうのは、
「正解を知る」こずではなく、
「今、自分の感芚がどこを向いおいるか、どこに圚るのか」
を確かめるこずなのだず思うのです。

思考は、時に私たちを助けたす。
けれど、思考だけでは、人生の埮劙な曲がり角を曲がれないこずもある。

象は、その曲がり角に立っおいる暙識のようなものなのではず思いたす。

止たる時。
流れる時。
照らす時。
動く時。

そう呜什するのではなく、ただ、そこにサむンずしお圚る。

易経が䜕千幎も残っおきた理由は、
この説明しすぎない優しさにあるのかもしれたせん。

象は、考えすぎお疲れた人に、
「もう少し心身の声に耳を傟けおもいい」
ず䌝えおくれる。

それだけで、人生は少し、呌吞しやすくなるのです。

第四章 ― 倉化ずは出来事の予枬ではなく「意識の移動」

「人生を倉えたい」
この蚀葉を、私はこれたで䜕床も聞いおきたした。

倚くの人が思い描く「倉化」ずは、環境が倉わるこずです。
仕事が倉わる、人間関係が倉わる、
状況が奜転する、問題が解決する。

もちろん、それらは人生においおずおも倧切です。
けれど䞍思議なこずに、環境が倉わっおも、
同じずころで躓き苊しむ人がいたす。

職堎を倉えおも、䌌たような人間関係に疲れ
パヌトナヌが倉わっおも、同じ感情の絡たりに傷぀く。

その姿を芋おいるず、私はい぀も思いたす。
「倉わっおいないのは、出来事ではないのではないか」ず。

易経が語る「倉化」は、出来事の移り倉わりではなく
それは、意識の圚り方がどこぞ動くかずいう問題なのではず思うのです。

私たちは、気づかないうちに、同じ堎所から䞖界を芋続けおいたす。

傷぀いた経隓のある堎所。
恐れを芚えた蚘憶の堎所。
「こうしなければならない」ず思い蟌んだ堎所。

そこから䞖界を芋る限り、
どんな出来事も、
䌌た景色を垯びお再珟されおしたう。

䟋えば易経で倉爻を芳る時
それは「未来が倉わる」ずいう予蚀ではなく
今たで匵り付いおいた意識が、
ほんの少し別の堎所ぞ移動する可胜性
を瀺すものず私は捉えおいたす。

怒りの䞭にいた人が、
その怒りを俯瞰し「芋おいる偎」に移る。
䞍安に飲み蟌たれおいた人が、
䞍安を抱えながらも別の道を遞べる堎所ぞ戻る。

それだけで、同じ珟実が、違っお芋え始めたす。

倉化ずは、劇的である必芁はなくお
倧きな決断や、勇気ある行動でなくおもよくお

少しだけ冷静になっお
「私は今、ここから芋おいる」ず気づくこず。
それが、人生を倧きく倉える第䞀歩になるこずもあるのです。

易経は、「必ずこうなるよ」ずは断蚀したせん。
代わりに、「ここから圌方ぞ移動できるよ」ずいう地点を瀺したす。

だから易を読むこずは、未来を圓おるこずではなく、
自分の意識が今、どこに留たっおいるかを知るこずなのではず思いたす。

もし人生が停滞しおいるず感じたら、
自分を責める必芁はありたせん。

倉わるべきは自分ではなく、
自分が立っおいる堎所かもしれないからです。

意識が䞀歩動くず、
出来事は、埌から远い぀いおきたす。

それが、易経が䜕床も䜕床も「倉わる」ず語り続けおきた意味なのだず、
私は思っおいたす。

第五章 â€• 倖に預けおいた重心を内偎ぞ戻す

人生が苊しい時、
人は無意識のうちに、
ある立ち䜍眮に立ち止たりたす。

「どうしお私ばかり」
「盞手が悪い」
「環境が敎えば、私は倉われるのに」

それは決しお、匱さではありたせん。
寧ろずおも自然な心の反応です。

傷぀いたずき、人は自分を守るために、倖偎に理由を求めたす。
私自身も、長い間そうでした。

けれど、ある時ふず、奇劙な感芚を芚えたのです。

「私はずっず、同じ立ち䜍眮から䞖界を芋続けおいるのではないか」

ず。

それは、誰かに䞎えられた圹割ではなく、
自分を守るために、無意識のうちに遞び続けおきた
「倖に重心を眮いた立ち䜍眮」
だったのではないかず思いたす。

この䜍眮にいる限り、
人生は垞に「倖偎」によっお動かされたす。

誰かの蚀葉
誰かの態床
過去の出来事

それらが、自分の感情や行動の䞻導暩を握っおしたう。

぀たり、自分の内偎には戻れおいない状態です。

ここから䞀歩離れるずいうこずは、
「もう傷぀かない自分になる」こずでも、
「匷くなる」こずでも、
「無理に蚱す」こずでもありたせん。

それはただ、
意識の重心を、そっず内偎ぞ戻すずいう遞択
なのではず思いたす。

䜕が起きたか、ではなく
今、私はどう感じおいるのか
そしお、どう圚りたいのか
そこぞ芖線を戻すこず。

易経は、
「あなたが悪い」ずも
「盞手が悪い」ずも蚀いたせん。

ただ、
今どこに立っおいるのか
そしお
どこぞ移る時なのか
それだけを瀺したす。

重心を内偎ぞ戻したからずいっお、
䞖界が急に優しくなるわけではありたせん。

けれど、䞖界ずの距離感が倉わりたす。

振り回されおいた出来事を、
䞀歩匕いた堎所から芋られるようになる。

遞べなかったず思っおいた人生に、
ほんの小さな䜙癜が生たれる。

その䜙癜こそが、自由の始たりです。

人生の責任を匕き受ける、ずいう蚀葉は
重く聞こえるかもしれたせん。

けれど易経が瀺す責任ずは、
眰でも矩務でもありたせん。

それは、
人生の創造に、もう䞀床参加する立ち䜍眮ぞ戻るこずです。

倖に預けおいた重心を内偎ぞ戻すこずは、
孀独になるこずではありたせん。

寧ろ、自分の人生ず再び手を繋ぐこず。

「私は今、ここから生きおいる」

そう匕き受けた瞬間、䞖界は少しだけ、違っお芋え始めたす。

易経が長い時間をかけお䌝えおきたのは、
その静かな倉化なのだず、私は思っおいたす。

第六章 â€• 易経は思玢を促す地図

易経を孊び始めた頃、私はどこかで戞惑っおいたした。

なぜ易経は数千幎以䞊も読み継がれおきたのか。

その理由が、長い時間をかけお、少しず぀分かっおきたした。

易経は、
人に“信じさせる”ための曞ではない。
人が自分で胜動的に人生を考え歩むための地図なのだず。

倚くの思想や教えは、安心を䞎える代わりに、
思考の自由を手攟させおしたうこずがありたす。

「これを信じれば倧䞈倫」
「こうすれば間違いない」

それは䞀芋、優しい蚀葉です。
けれど同時に、自分で考える力を奪っおしたう。

易経は、
半も、象も、倉化も、
決しお䞀぀の意味に固定されたせん。
読む人の状況、幎霢、経隓などによっお党く違う顔を芋せたす。

だからこそ、問いが生たれ続ける。

「これは䜕を瀺しおいるのだろう」
「今の私は、どこに立っおいるのか」
「次に動くずしたら、どの方向だろう」

易経が導き出すのは、答えではなく問いの座暙です。

私は易者ずしお、長い間倚くの人の人生に觊れおきたした。

人は、正解を䞎えられおも倉わりたせん。
けれど、自分で疑問を持った時、驚くほど深く倉わっおいきたす。

易経が促しおいるのは、たさにそれなのです。

信じなくおいいし
埓わなくおもいいから
ただ、読んでみお
そう蚀われおいるように感じるのです。

だから易経は、人を瞛らない。
寧ろ、人を解き攟぀。

易経を読む時に倧切なのは、
自分の感芚が䜕を感じ取ったか。
どの䞀文に、どの象に、
心が匕っかかったか。

そこにこそ、自分自身の答えがあるのです。

易経は完成された思想ではなく、未完の察話です。

読む床に、問いが倉わり、答えも倉わる。
読む時、読む立堎、読む堎所が倉われば答えも倉わるのです。

だからこそ私は、
易経を生き方、圚り方のための思玢の地図ずしお
手に取り続けおいたす。

易経が数千幎を越えお残った理由は、そこにあるのだず思うのです。

゚ピロヌグ â€• 易経は「圚り方」を芋぀める曞

21歳の頃、私は易経ず出䌚いたした。
以来ずっず、私がしおきたこずはただひず぀です。

自分の人生を通しお、易経ず察話し続けおきた
それだけです。

四十幎ほど、私は易経を孊び、䜿い、問い続けおきたした。
易者ずしお。母ずしお。劻ずしお。ひずりの人間ずしお。

喜びの䞭でも、喪倱の䞭でも。
怒りや絶望の䞭でも。

それでも易経は、䞀床も私に「こうしなさい」ず呜じたこずがありたせん。
ただその郜床、問いの眮きどころを瀺しおきたした。

「今、私はどこに立っおいるのか」
「どの立堎で䞖界を芋おいるのか」
「今はどんな時なのか。それは本圓に、私自身の遞択なのか」

私は、い぀もその問いに答えおきたした。
答えを“圓おる”ためではなく、
自分の足で生き盎すために。

だからこそ私は、易経を“信じ蟌たせる道具”ずしお䜿いたくないのです。

恐れを煜るためにも、
垌望を安売りするためにも、
䟝存を生むためにも、
易を䜿いたくないのです。

易経は、人を匱くするための曞ではない。
自分の足で立ち、考え、遞び、匕き受けお生きるための支えです。

私が日英䜵蚘で綎っおいる易経の蚀葉も、
䟋えばりィルヘルムをなぞっおいるわけではありたせん。

私の䞭に積み重なっおきた
東掋の易、西掋の易、人生の実感、沈黙の時間。
それらが重なり合い、折り重なっお、今の蚀葉になっおいるだけです。

確信ではなく、思玢の䜙癜を。
教矩ではなく、生きた問いを。

易経は、人生を支配するものではなく、
人生に寄り添いながら「圚り方」を照らす地図。

私はその地図を読み、考え続けたい。
それが、今の私の易に察する立ち䜍眮なのです。

今、あなたはどこに立っお䞖界を芋おいたすか

いいなず思ったら応揎しよう

星 マリア 有難く頂戎臎したしたサポヌトは、動物保護斜蚭ぞの募金及び易経研究の為に䜿わせお頂きたす💓