利己すぎる僕と利他すぎる妻が結婚したら調度よくなった話
皆様は「自分のため」と「他人のため」どちらの比重を重くして生きていらっしゃいますでしょうか。
世間では「利他の精神」などという美しい言葉が尊ばれ、ボランティアだの他者貢献だのが美徳とされているようでございます。
しかし、ここで告白を許していただけるならば、僕は宇宙の何よりも自分が可愛い、純度100%の「超絶・利己主義者」でした。
自分の可処分時間は1秒たりとも無駄にしたくありませんし、愛する文房具を愛でる時間を邪魔されるくらいなら、いっそ仕事を辞めてしまえと常々考えているような男です。たまたまバイクが好きなので趣味と実益を兼ねてサラリーマンを維持できておりますが…。
そんな僕が、突然結婚しました。
そしてそのお相手たる妻は、僕とは真逆に位置する「自己犠牲すら厭わない、超絶・利他主義者」だったのです。
この「水と油」「悪魔と天使」ほどに性質の違う二人が一つ屋根の下で暮らした結果、どうなったかというお話を、紐解いてみたいと思います。
絶望的な我が家の利害関係
我が家の生態系を分かりやすく整理いたしますと、以下のようになります。絵に描いたようなアンシンメトリー。
僕(超絶・利己)
行動原理:自分が面白いか、ロマンがあるか。
基本姿勢:他人の領域には踏み込まない代わりに、自分の領域にも一歩たりとも入れさせない。
妻(超絶・利他)
行動原理:周囲の人間が幸せであるか。
基本姿勢:自分の睡眠時間や体力を削ってでも、他者の要求に全力で応える。
例えば、休日の過ごし方一つとっても顕著です。
僕は「今日は一歩も動かず、お気に入りの万年筆にインクを補充し、最適な抽出温度で淹れた珈琲を飲む」と決めたら、そのスケジュールを遂行したいタイプ。
地球の裏側で巨大な隕石の衝突予測が発表されて世界中がパニックに陥り、人々が右往左往する狂騒のなかでも、色彩雫(いろしずく)を美しく吸い上げるのが先決と、喧騒を無視してインクボトルを開けられる、そんな静かなる狂気。
一方で妻は、自分がどんなに疲れていても「あの子(犬や猫)が退屈そうだから」「あの人が困っているから」と、自らのエネルギーを湯水のように他者へ注ぎ込んでしまうのです。
お分かりでしょうか。
普通に考えれば、このような二人が一緒にいれば、利己的な僕が利他的な妻を搾取するだけの、最悪なディストピアが完成するはず。
奇跡の平準化:「利己」と「利他」
ところが、お互いのベクトルが極端すぎた結果、双方の引力が働き、信じられないほど「ちょうどいい」中心点へと着地しました。
妻の「利他」が僕の「利己」をふんわり包む
僕の度を越した我が儘やこだわりに対し、妻は「まぁ、楽しそうだからいいんじゃない?」と、信じられないほどの包容力で受け流します。
普通なら「少しは周りのお父さん達を見習って。」と叱責されるところですが、彼女の利他精神は僕のわがままさえも「満たしてあげるべき対象」として認識するようです。
お陰様で僕は、今日も安心して道楽に邁進できております。
僕の「利己」が妻の「自己犠牲」を阻止する
これが最も重要な変化かもしれません。
妻は放っておくと、文字通り「自分を滅ぼしてでも他人に尽くす」自爆型の聖者です。
そこに、僕の「自分第一主義」がブレーキとして作動。
「そんなに他人に尽くして君が倒れたら、僕の快適な生活環境と僕の心の平穏が脅かされるので、まずは君が休み、僕のために健やかでいてくれないと困る。」
などと、極めて不遜かつ利己的な理由で、僕は妻の自己犠牲を強引に阻止するのです。
結果として、妻は「自分のために休む」大義名分を得ることになりますし、僕の徹底した自己中心性が、図らずも彼女を守る盾となっているわけです。
凸と凹が噛み合うということ
世間では「価値観の一致」が結婚の条件としてよく挙げられます。
しかし、僕たちを見ていると、価値観が全く一致していないからこそ、綺麗に噛み合うギアもあるのだと痛感せざるを得ません。
もし僕たちが二人とも利己的であれば、家の中は冷徹な個人主義の戦場と化していたでしょう。逆に、二人とも利他的であれば、お互いに譲り合いを続けた結果、遠慮のインフレが起きて疲れ果てていたに違いありません。
「世界で一番自分が可愛い男」と「世界のために自分を差し出す妻」
この極端な二人が出会ったことで、僕は少しだけ他者を思いやる視点を学び、妻は少しだけ「自分を甘やかす」という安心を知りました。
神の采配というのは皮肉で、そして調度よくできているものですね。
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