北海道紀行その1——稚内・北方記念館で知る知られざる歴史
原付で稚内を駆け回る
昨日はお昼前から夜まで稚内をしゃぶり尽くしました。
その移動手段は——原付!!!!!!!!
23歳の時に交通事故にあって以来怖くて乗れなかったのですが(笑)、小回りが利いてちょうど良かったです。
まず最初に向かったのが、どうしても行きたかった樺太食堂。泣くほど美味しかったのですが——この食レポは北海道版として別の機会にまとめて書きます(笑)
食後はノシャップ岬へ。残念ながら雲が多くて利尻富士は見えなかったけれど、写真で見る美しさはハンパない。

一度肉眼で見てみたいです。冬は凍るオホーツク海を間近で見られて、不思議な嬉しさがこみ上げてきました。
北方記念館——間宮林蔵の大偉業
次に向かったのが丘の上の開基百年記念塔、その中にある北方記念館。
ここはアイヌのことと、間宮林蔵のことが中心です。


江戸からこの北の果てまで歩いてきて、さらに樺太に渡り、歩き続けて地図を作る——これは師匠の伊能忠敬とともに語られる大偉業です。
実際に作成された地図のレプリカが残っていて——北海道は大きいので約20枚の紙を繋ぎ合わせて作られていて、その一枚の紙の大きさが一畳分。

すご過ぎないですか(汗)
北海道だけで20畳の部屋が必要——汗しか出ません。
ロシアの脅威と樺太の歴史
江戸時代に北海道全土を認識し、樺太にまで渡って「島」という認識を持っていた日本。この大事業の元にあったのが——ロシアからの脅威。
たびたび北海道近海にロシアの軍艦が現れるだけでなく、上陸して日本人を殺戮する事件も頻発していました。徳川幕府も統治者として対応にあたっていたのです。
この延長線上が日清・日露戦争に繋がり、大東亜戦争に、そして今にも繋がる物語です。
樺太の歴史をざっくりと
最初は日本とロシアによる共同管理という中途半端な状態。尼港事件やシベリア出兵などを経て、一時期は樺太全土が日本だったこともありました。
その後の交渉で——
樺太全島はロシア領、北方領土を含む千島列島は日本領として国境が明確化。
そして日露戦争(1905年)——日本の判定勝ちにより南半分の樺太を得て、日本領としたのです。

王子製紙の活躍が、まさかここに
1905年から昭和20年8月15日までの40年間——山と海しかない未開の地に、学校が作られ、鉄道が敷かれ、産業が興りました。
特にパルプ事業は要となり、当時日本国内のパルプの8割はサハリン産だったとのこと。
そしてこの樺太でパルプ事業に乗り出したのが——ボクが生まれ育った街が発祥の、王子製紙。
ちょっと嬉しい発見でした(笑)
工業・農業・林業が栄え、写真に残る図書館・学校・郵便局——すべての建物が、当時の日本そのものなのです。
館長さんとも話したのですが、「よく何もないところで、これだけのインフラを整えたな。本当に先人たちはすごいの一言しかない」とおっしゃっていました。


国境を接する樺太——なぜ兵隊が少なかったのか
大東亜戦争末期まで、南樺太は普通の穏やかな日常を過ごしていました。
その証拠に——ロシアと国境を接しているのに、兵隊さんの数は圧倒的に少なかった。米英と戦うために南方へ派遣されていたこともありますが、最大の要因は——
日ソ中立条約の存在。
国境を跨いで攻撃はしないという条約が結ばれていたのです。
この条約の突然の破棄が——同じように国境を接する満洲や千島列島でも同じような悲惨な出来事を引き起こすことになります。
ここからが本題なのですが——長くなるので次回書きます!
【今日の本質】
樺太のことを何も知らなかった
日本本土の中でソ連と陸で国境を接していたのが樺太
日本は常にロシアの脅威と向き合っていた
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