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新幹線の酒は、なぜあんなに臭いのか

同じ酒の匂いでも、心地よく感じる場所と、思わず顔を背けたくなる場所がある。鼻が受け取っているものは同じようでいて、そこには場所の空気や他人との距離、その時代の公共空間に対する感覚まで入り込んでいる。新幹線で隣の人が酒を飲み始めたときの小さな不快感から、五感が何を感じ取っているのかを考えてみた。

新幹線で隣の人が酒を飲み始めると、空気の質が変わったように感じる。缶ビールでも、ハイボールでもいい。小さく音がして、隣の人が缶に口をつける。相手はまだ酔っているわけではない。大きな声を出しているわけでもない。迷惑行為と呼ぶには早すぎる段階で、それでもこちらの鼻は、もう十分に反応している。

その匂いが苦手だ。

酒が嫌いなのではない。バーでグラスから立ち上がるウイスキーの香りは、むしろ心地よい。ビアホールでジョッキが並んでいても、ビールの匂いに顔をしかめた記憶はあまりない。ワインも日本酒も、場所によっては香りそのものが楽しみになる。酒は、きちんと場に置かれているとき、香りとして受け取られる。

それなのに、新幹線の隣席で誰かが酒を開けると、同じ酒が急に臭く感じられる。最初は、空間の狭さが原因なのだと考えた。座席の距離が近く、車内の空気は逃げにくい。天井も低く、身体の向きを変えても隣との距離はほとんど変わらない。缶から立った匂いが薄まらないまま届くのだから、不快に感じるのも当然に見える。

しかし、それだけでは説明しきれない。ビアホールも店によっては相当に混んでいる。隣の人との距離は近く、グラスの口は缶よりも広い。酒の香りが空気に出ていく条件だけを見れば、新幹線よりビアホールの方が強く匂ってもおかしくない。むしろ、ビアホールでは周囲の人がみな酒を飲んでいる。呼気に含まれる酒の匂いも、料理の匂いも、人の熱気も、車内よりずっと多いはずだ。それでも、ビアホールで隣の人のビールを臭いと感じることは少ない。バーのカウンターでも、隣の人が酒を飲んでいることは、たいていその場の自然な出来事として受け取れる。

ビアホールの酒の匂いは、誰か一人のものではない。店に入った瞬間から、酒、料理、人の声、グラスの音、照明、カウンターやテーブルの質感まで含めて、そこは酒のある場所として受け取られている。酒を含んだ呼気も、料理の匂いも、人の熱気も、個別の発生源を失い、店全体の空気に混ざっている。

新幹線では、匂いの総量はビアホールより少ないかもしれない。それでも、隣の人が缶を開けた瞬間、原因ははっきりしている。さっきまでなかった匂いが、その人の行為によって始まる。缶を口に運び、つまみを食べ、また飲む。そのたびに、こちらは匂いの発生源を意識する。鼻に届いているものは、車内全体の空気ではなく、隣の人がいま始めた行為として受け取られる。

同じ酒の匂いでも、場に溶けて匿名化されているときと、特定の人の行為として近くに発生するときでは、感じ方が変わる。ビアホールの酒の匂いは、店の空気に混ざっている。新幹線の酒の匂いは、隣の人の行為として浮かび上がる。そこに、逃げ場のなさと、受け入れるつもりではなかったものを受け取らされている感覚が重なる。

酒そのものが臭いのではない。酒の匂いが、場の空気から外れて、特定の誰かの行為としてこちらに届いたとき、臭くなるのだ。

この感覚の変化は、音でも起きている。ライブハウスにいるとき、大きな音は迷惑ではない。むしろ、その大きさを浴びるために人はそこへ行く。低音が胸に当たり、ドラムの音が床から返ってくる。会話はほとんどできず、耳にとっては相当な負荷がかかっているはずなのに、その強さは不快ではなく、体験の中心になる。

一方で、電車や新幹線で隣の人のイヤホンから漏れてくる小さな音は、妙に気になる。音量だけでいえば、ライブハウスとは比べものにならない。曲として聞き取れるほどの情報もない。細い高音が、隣の席から断片的に漏れてくるだけだ。それでも意識はそこに持っていかれる。

耳が嫌がっているのは、音の大きさだけではない。ライブハウスの音は、その場所にいる人たちが共有している。演奏する側も、聴く側も、その音の中に入ることを前提にしている。隣のイヤホン漏れは、隣の人が一人で聴いている音楽の端切れが、こちらへ流れ込んでくるものだ。音は小さくても、そこには居場所がない。

匂いも、音も、感じ方は時代によって変わっていく。以前の新幹線には、今より雑多な空気があった。駅弁を広げる人がいて、ビールを飲む人がいて、出張帰りの会社員たちが少し大きな声で話していた。喫煙車両もあった。食べ物、酒、煙草、人の疲れ、仕事帰りの緩みが、車内に混ざっていた。

その頃の車内には、今よりも広い許容範囲があった。隣の人がビールを開けても、それは特定の誰かの身勝手というより、新幹線という移動空間にありうる出来事として受け取られやすかった。良い悪いではなく、車内に許されている雑多さの幅が、今より広かった。

今の新幹線は、もっと静かで、清潔で、管理された空間になっている。車内で過ごす時間は、仕事や休息や読書のための、個人に割り当てられた時間として扱われるようになった。車内販売は減り、煙草の気配も薄くなり、空間全体が以前よりも無臭で静かな方向へ整えられている。

公共空間が清潔で静かなものとして期待されるほど、そこから外れた匂いや音は前に出てくる。鼻や耳が単純に敏感になったというより、新幹線に座るときの身体の構えが変わったのだろう。かつてなら車内の雑多さに紛れていたものが、今は誰かが始めたこととして浮かび上がる。

匂いも音も、物理的な刺激としては確かに存在している。鼻に入る匂い分子があり、耳に届く音波がある。しかし、私たちが実際に感じているものは、それだけではない。その刺激がどこから来たのか、誰のふるまいとして生まれたのか、その場所で受け入れられているものなのか、自分はそれを受け入れる前提でそこにいたのか。そこには、その時代の公共空間に対する感覚や、その場所に共有されている文化まで入り込んでいる。

同じ新幹線でも、駅弁とビールと煙草の気配が混ざっていた時代と、静かで清潔な移動空間として整えられた今とでは、鼻や耳の構えが変わる。ビアホールの酒の匂いが店の空気に溶けるのは、そこに酒を飲む場所としての文化があるからだ。ライブハウスの大音量が不快にならないのも、音を浴びるための場所として、そこにいる人たちが同じ前提を共有しているからだ。

新幹線の酒臭さは、そのことをよく示している。私たちは、世界をそのまま感じているのではない。世界と自分との関係を、匂いや音や肌ざわりを通じて感じている。その関係には、距離だけでなく、場所の作法があり、時代の空気があり、自分がそこに何を期待して座っているのかまで含まれている。

もし、あなたの中にもふれたものがあったのなら、それは、思いがけない歓びです。

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