編集の差の子育て論
朝日の差し込むキッチン。
木の器に並んだ彩り豊かな野菜。
そのそばで静かに絵本を読む子ども。
SNSをスクロール中。
スマホ越しに、私はしばらくその光景を見つめていた。
何かがおかしい、と感じた。
いや、おかしいのは向こうではない。
私の台所の方だ。
視線を上げると、そこには昨夜の食器が積まれたシンクがあった。
子どもは床に散らばった
“ゴミなのかおもちゃなのかわからない、でも捨てないで取っておいている何か”
に埋もれながら、意味不明な奇声を上げている。
同じ「子育て」という言葉で語られる光景だとは、にわかには信じがたい。
私はスマホを伏せ、しばらく考えた。
あの母親と私、一体何が違うのか。
才能か
環境か
それとも――
答えを探るように、
私は先週末の出来事を思い返していた。
その朝、何を思ったのか私は
出汁からとって味噌汁を作ろうと決意した。
鰹節の香りがキッチンに立ちのぼり、
我ながら悪くない、と思ったそのときだった。
なんか静かじゃね?
床は色とりどりの鮮やかな色に染まり、
カーペットは粘土なのかスライムなのかでべっとり、
私はただ立ち尽くしていた。
その後の修羅場は筆舌に尽くしがたいものがある。
あの写真の母親なら、この10分間をどう処理したのだろうか。
そこまで考えて、私はふと違和感に気づいた。
――そもそも、あの写真の母親に、この10分間は存在したのだろうか。
いや、存在しないはずがない。
誰の子育てにも、
「あと1回だけ」が10回目に突入する瞬間や、
突然始まるルールなどないしりとり大会や、
床がマグマで覆われることやワニだらけになること、
👩「ママ今うんちだからワニ来れないよ〜」や、
👩「マグマはスリッパで行って‼︎」
は必ずある。
だとすれば
写真に写っていないだけだ。
私が見ていたのは、
彼女の子育てそのものではなく、
彼女が「見せると決めた瞬間」
だけだったのではないか。
推理は、ひとつの結論に辿り着いた。
丁寧な暮らしの母親と、私との間にある落差。
それは実在する差ではなく
編集の差
にすぎない。
彼女もまた、
写らない10分間を、
どこかで生きている。
真相にたどり着いても、
目の前の台所が片付くわけではない。
それでも私は、
少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
その夜、
私は出汁から取る味噌汁の代わりに
即席の味噌汁を作り、
子どもに笑いかけた。
丁寧でなくとも、生きている。
それだけで、よし、としたかった。
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