ひとくぎり
四十九日が、終わった。
終わった、という言葉を使っていいのかどうか、今でも少し迷う。
何かが終わったわけじゃない。でも、終わったと言わないと、先に進めない気もしている。
そういう、どっちつかずの場所に、今の私はいる。
仏教では、人は死んでから四十九日をかけて、あの世へ旅をするらしい。
初めてそれを聞いたとき、なんて長い旅だろうと思った。でも今は、なんて短いんだろうと思う。
たった四十九日で、どこかへ行ってしまうのか、と。
葬儀が終わり、法要が終わり、手を合わせるたびに、兄はまだここにいるような気がしていた。気配、と言えばいいのか。うまく言えないけれど、完全にいなくなった感じがしなかった。
それが四十九日を境に、少し変わった。
変わった、というより、変わらざるを得なかった、という方が正確かもしれない
法要の帰り道、空がやけに青かった。
何でもない空だった。
特別でも何でもない、ただの昼間の空。
でも、なぜか目が離せなかった。
兄がそこにいるとか、そういうことを思ったわけじゃない。
ただ、見ていた。
涙が出るかと思ったけど、出なかった。
悲しくないわけじゃない。
ただ、悲しみがどこか遠くなった気がした。波が引くみたいに、静かに。
それが寂しいのか、それとも少し楽になったのか、自分でもよくわからなかった。
四十九日というのは、残された側のためにあるんじゃないか、と思った。
死んだ人のための時間というより、残された人が少しずつ、死を受け取っていくための時間。
一度には受け取れないから、四十九日かけて、少しずつ。
そういうことなのかもしれない。
だとしたら、仏教はずいぶん人間のことをよく知っている。
悲しみは、一気に処理できるものじゃない。
時間をかけて、少しずつ、自分の中に馴染ませていくしかない。
馴染む、という言葉が正しいのかどうかもわからないけれど。
正直に言う。
四十九日が終わっても、何かが解決したわけじゃない。後悔は残っている。
もっと連絡すればよかったという気持ちも、もっと会いに行けばよかったという気持ちも、消えていない。
むしろ、法要が終わって、日常が戻ってくるほど、その後悔がくっきりしてくる気がする。
忙しくしている間は、悲しみの輪郭がぼやけていた。
でも静かになると、ちゃんとそこにある。消えてなくなるわけじゃなかった。
ただ、変わったことがひとつある。
後悔と一緒に、何か別のものも残っていることに、気がついた。
うまく言えないけれど、兄が生きていたという事実は、誰にも消せないということ。
兄がどこかで笑っていた日があったということ。
誰かの隣にいた時間があったということ。それは、死によっても奪われない。
そのことを、四十九日が終わってから、初めてちゃんと思えた気がする。
悲しみは、終わらない。
でも、悲しみの中に、少しだけ別の色が混ざり始めている。
それを希望と呼ぶには、まだ早い気がする。
でも、絶望でもない。
ただ、静かに、そこにある。
四十九日が、終わった。
兄の旅が終わったのか、それとも私の旅が始まったのか、まだわからない。
たぶん、どちらでもあるのだろう。
空は今日も、何でもなく青い。
それでいい、と思う。
それでいい、と思えるようになっただけで、少し、前に進んだ気がしている。
