食事の記憶 61 ぶり大根
「ぶり大根は、丹念に料理してやればやるほど、美味しなるんや」
とは、母の言である。
冬の味覚、ぶり、と大根。
大根は、近隣の農家さんに頂いていたから、ぶりのお代だけで作ることができた。
大根は、1本から1本半を使う。
それに見合う、ぶりアラが手に入るからだ。
毎度、登場する魚屋の行商さんが、ぶりアラやぶりの切り身を、軽トラにのせていたら、
「大根いるかぁ」
と、近所の農家さんが訊いて下さったものである。
先ず大根は、3cm幅ぐらいに切りわけて、十文字の隠し包丁を入れる。
我が家は大根を、半月にはしない。
この大根は、米のとぎ汁で予め茹で、アクを抜いておく。
ぶりアラには、熱湯をかけてから水で洗い、血合いや皮のヌメリを流して生臭さをとる。
母は、ぶりの切り身も少し入れていたから、こちらは一口大に切りわけて、やはり熱湯をかけて霜降りにし、氷水に取っておく。
そして、酒・砂糖・みりん・醤油・水を煮たたせて、ぶりアラと切り身を入れ煮付ける。
アクを掬い取りながら煮しめ、ぶりアラと切り身に火が通れば、一旦取り出す。
次に、大根を入れる。
こうしたら、ぶりがパサパサにならず、ぶりも大根も味が染みる。
大根が色づいたら、ぶりアラと切り身を戻し、落とし蓋をして一緒に煮しめ、出来上がりだ。
1時間ぐらいの調理時間は、最低でもかかる。
時々、煮汁をお玉で掬い、ぶりにかけてやったり、アクが出ればその都度取り除く手間が必要であるから、
「丹念に」
と、母は何度も言ったのだった。
しかし、こうして、
「美味しくなあれと、真心を込めれば、ツヤツヤのべっ甲色に輝く美味いぶり大根が作れるんや」
とも、母には教えられた。
母は、おっとりした性格だから、このような長時間の料理や、根気が要る料理も、嫌がることなくいつも上手に拵えてくれた。
だから、弟と私は、子供があまり好まない食事のメニューも、好き嫌いなく食べていた。
特に煮魚は、2人共、骨をしゃぶるほど好きだった。
それに魚屋の行商さんが、新鮮で旨味たっぷりの旬を売りに来てくれたのが、魚好きになった大きな要因の1つだと思う。
こんなお手製の料理が食べられたのは、昭和という時代背景もあったろうと考える。
今は、専業主婦の世の中ではなく、夫婦共働きが当たり前だ。
男女雇用機会均等法が……と、声高(こわだか)に叫ばれた時代は過ぎ去り、女性の社会進出が当然で、男性と同じように働ける職場はたくさんある。
イクメンなる言葉も死語となりつつある現代、男性も育児をするのが普通になった。
だからこそ、料理に時間をかけられるのは、リタイヤしてからではなかろうか……。
時代の移り変わりが生み出した結果だが、私が子供時代には、夫婦共働きの家庭の子は、俗に「鍵っ子」と呼ばれ、学童に通う子供達を可哀想とさえ感じていた。
「ただいま」
と、帰れば、
「おかえり」
と、必ず母の声がしたのは、我が家だけではない。
隣近所の皆がそうだった。
決して裕福ではなかったし、昔の考えが根強く、男尊女卑で、村組織に縛られることは、往々にしてあった。
しかし、村組織の愛情もあちこちに散りばめられていた。
私の母は身体が弱かったから、しょっちゅう寝込んだし、私が中学1年生以降は、救急車を呼び、入院になることも、度々あった。
だが、周囲が専業主婦の家庭ばかりだったからこそ時間に余裕があり、兼業農家が多かったという村だからこそ、ご近所の方々に助けて頂きながら、私は成長することができた。
村人に見守られ、村社会に愛された。
子供が孤立しても、セーフティネットが存在していた。
母を救急搬送した初めての時は、私が中学1年生で弟が小学2年生だった。
翌日は3学期の始業式であり、その記憶は鮮明である。
父の会社に電話をしたが、返事は素っ気なかった。
「お前が救急車呼んだんやから、1人で付き添え。
俺は仕事が忙しい。
病院からはタクシーで帰って来い」
と。
そして救急車が、ピーポーピーポーと赤色灯を回してやって来た。
我が家の前で止まれば、村の人達が、
「なんや、なんや」
と、野次馬根性も手伝って、ゾロゾロ集まって来た。
状況を理解してくれた、隣近所の方々が手を貸して下さる。
「桜ちゃん、お父さんは?
仕事か?
ほんなら、おっちゃんとおばちゃんが一緒に救急車に乗ったるわ」
と、左隣のご夫妻が同乗してくれた。
夕食中だったから、弟がまだ食事をしていた。
すると、向かいの、おばあちゃんが、
「桜ちゃん、家のことは心配せんと。
弟はおばあちゃんが見といたるさかい」
と言って、家に来てくれた。
母は入院になったが、病室で言われたのは、
「あの子(弟)は、シワクチャの制服が嫌いやから、アイロンあてたって。
パパの着ていくもんの準備はできるよな。
ズボンにはベルトを通しておいて、靴下は揃えて、ワイシャツはクリーニングの袋から出して、タグを外すのを忘れなや。
桜はお姉ちゃんなんやから、ママの代わりをせなアカンねんで」
だった。
母が緊急入院になった旨を父に公衆電話で伝えた時、隣のおじさんが父に、
「タクシーで帰れっちゅうのは、あんまりちゃうか」
と、言ってくれた。
私1人だと思い込んでいた父は、気まずかったのだろう、仕事を切り上げて病院まで迎えに来た。
そして、隣のご夫妻と一緒に車で自宅に送ってくれた。
翌朝には、右隣のおばさんが、
「桜ちゃん、始業式の準備は大丈夫か?
昨日は遅かったから、朝ご飯、作る時間ないやろ?
これ、良かったら食べて行きや」
と、父、弟、私の朝食を持って来てくれた。
ただ父は、
「お前の作ったもんなんか、食えるか。
喫茶店で朝メシは食うから。
晩はおそなる(遅くなる)よって、外で食ってくる」
と、私が用意した衣服を身に着けたら、早々と会社へ車で出勤した。
父の車が実家のガレージを出る際の誘導をしてから、シャッターを閉めて、私は弟の世話をやいた。
父には、
「今度から救急車を呼ぶ時は、サイレンを消してもらえ。
絶対、近所の世話になるな。
俺が恥をかくやろが」
と、叱られた。
だが、サイレンを消してもらっても、救急車が我が家の前で止まれば、毎回、隣近所にはバレた。
そうして、いつも、皆様のお世話になった。
ただ2度と、救急車には同乗してもらわず、弟には1人で留守番をさせた。
それは、私が幼稚園入園前でも、母が弟の難産につき、出産前、出産後と、入院していた時、1人で留守番をできたからだ。
弟は小学生なのだから、できる筈だと考えた。
そうして私はいつの間にか、弟の保護者みたいになっていった。
そんな風に、父が家庭をあまり顧みない人でも、村のお陰で、私は寂しくなかったし、不安もなかった。
それに、母が元気な時は美味しい手料理を食べて幸せに暮らせていた。
今、振り返れば、これは昭和という時代だったからだろうと感謝している。
中学1年に上がる頃に、この、ぶり大根の作り方を伝授され、
「これで、ママはほとんどの料理を桜に教えたから」
と、言われた。
「もし、ママが死んでも、桜はご飯を作って、家事をできるよな」
とも。
今になりわかるのは、この母の考えが取り越し苦労だったことだ。
母は膠原病ではあるものの、現在も健在である。
どちらが先かはわからないが、私のほうが母より寿命を全うするのが早そうだと、最近、確実になってきた。
だが、当時習った、ぶり大根を思い出せば、その時の母なりの愛情がいっぱい詰まっているとわかる。
少々、よじれている部分はあるが。
それに、周囲の優しい心も、記憶という名で、ぶり大根に染み込んでいる。
だからぶり大根は、未来を何も知らなかった、あの時の私にとり幸せだった。
そうした子供時代を思い出せる、1品(いっぴん)なのである。
