人が生きるために必要な『物語』について
人はなんのために生きるのだろうか?
という問いは、誰しも一度は考えたことのあることかと思います。
人によってはそれは宗教であったり、家族であったり、お金だという人もいるでしょう。
人によりそれぞれの答えがあります。
しかし、それらは単に社会の中に流通するありきたりな「意味」を受け取ってるにすぎないのでは?
と聞かれて、明確に反論できる人は少ないのではないでしょうか?
それは時に神話であり、時に道徳であり、時に生きる希望として語られるものですが、誰もその正体を知らず、でも、誰もがそれなしでは生きていけないなにか。
それをここでは、物語と呼んでみることとします。
物語は、人を結束させ、個々人に生きる意味を与え、社会を作ります。
社会が語る物語に充分な強度があれば、人々は生きる意味に迷うことなく、日々を健やかに生きることができます。
日常に忙殺されているうちは、それで問題ありません。
仕事、趣味など、あなたに社会的な役割をそれらしい文脈で与えてくれるものがあります。
ですが、へとへとになって乗り込む仕事帰り、暇で何気なくスマートフォンを眺めるとき、ふと、「自分はなにをしているのだろうか」なんて思う瞬間があります。
そんなときに、世界はなんの意味も与えてくれません。
ただ、電車に乗る自分、スマートフォンを眺める自分がいる。
その行為だけがあって、それになんの意味があるんだと悩み問いかけても、誰も答えてはくれません。
ふとした不安が怖くて、人々は恋愛や家族、成功、承認、あるいは共同体や信仰などといった形で、どうにかして物語のない状態を回避しようとしている。
もしそうなら、物語なしには人は生きていけないと言ってもよいほどに、人は物語に依存しているということではないか?
そんなことを考えながら、私はこれまで読んだ小説のことを思い返していました。
小説とは、物語そのものでもあります。
しかしその中で登場人物たちは、物語に悩み、生きる意味を考え、それぞれの答えを得ようともがきます。
このnoteでは、三つの小説とその登場人物を通して、この「人は物語なしには生きられない」という構造を考えていきます。
そこには、どの物語も決定的な救いにはならないという事実と、それでも人は物語なしには生きていけないという現実があります。
まずはフランスのサンジェルマン通りから、個人的な物語の崩壊とその苦悩を見ていきましょう。
サルトル『嘔吐』から見る存在の意味
何かが私に起こった。もはや疑いの余地はない。そいつはありふれた確信や、明白な事実とは違って、まるで病気のようにやって来た。
哲学者として知られるサルトルの小説『嘔吐』ですが、実際読んでみると、全編を通して一人の男がただ思い悩むところを見せつけられる小説でしかありません。
ですが、それが非常に興味深い示唆を与えてくれます。
主人公のロカンタンは、海辺で水切りをしようと小石を持ち上げた瞬間、この小石と自分になんの違いがあるのかがわからなくなり、突然、強い嘔吐感に襲われます。
タイトルにもあるこの嘔吐感がこの小説全体のテーマとなっていて、ロカンタンはこの自分を証明してくれるもののない気持ち悪さに深く悩むことになります。
存在に意味はあるのか
人間は世界にあらゆる意味をつけて生活します。
石ならば、日常的には蹴って遊んだり水切りをしたり、大きなものであれば切り出して建材に使われるものもあるでしょう。
ロカンタンが直面したのは、そうした前提がすべて剥がれ落ちた後の世界です。
そこでは、なぜそれをするのかという問いに対して、どのような答えも決定的な根拠を持ちません。
存在はただ無根拠に存在しているだけで、自分と目の前の物は等しくただの存在でしかない。
言い換えれば、世界には最初から意味などなく、それを意味あるものとして構成していたのは人間の側だった、ということになります。
この状態は、一見すると「真実に近づいた」とも言えるかもしれません。
しかし同時に、それは極めて生きづらい状態でもあります。
なぜなら、私たちは日常的に意味や文脈を前提として行動しているからです。
それが失われたとき、何を選べばよいのか、何を基準に判断すればよいのかが分からなくなってしまいます。
実際、ロカンタンはこの状況に長く留まり続けることができません。
彼はこの「意味の不在」に耐え続けるのではなく、苦しみながらも、そこから何らかの形で抜け出そうとします。
その試みの一つが、音楽に触れたときに感じるある種の救いです。
そこでは、偶然に過ぎなかった出来事が、あたかも必然であったかのように配置され、ひとつのまとまりとして立ち現れます。
黒人の女は歌っている。してみると、人は自分の存在を正当化できるのだろうか? ほんの少しだけでも正当化できるのか? 私は異常なくらいびくびくしている自分を感じる。
ロカンタンがたどり着いた場所
では、この小説は音楽こそが救いなのだと主張するものかと言えば、もちろんそんなことはありません。
意味のない世界の中で、それでも意味を感じることができるものがある。
この吐き気に抗う手段はそれしかないというのが、ロカンタンの行き着いた先なのでしょう。
存在の理由がわからなくなっても、主観的に価値を感じられるものに触れることができれば、意味をある程度回復できるということがこの小説で示されます。
ですが、これは誰もができる生き方というわけではないでしょうし、根本的な解決にもなっていません。
少なくとも大抵の人は、自分を支えてくれる物語に依って立ち、その支えがなくなれば強い吐き気に襲われ、立ち直ることは難しいでしょう。
この作品が示しているのは、「物語が必要である」という単純な主張ではありません。
むしろ、物語が剥がれ落ちたときに露わになる世界と、それに対する人間の脆さです。
では、このような世界のあり方に耐えきれなかったとき、人はどのように振る舞うのでしょうか。
意味が最初から存在しないのだとすれば、それをどのように回復しようとするのか。
嘔吐のロカンタンは、音楽の中に一時的な救いを見出しました。ですがそれは、あくまで個人的で不安定なものであり、誰もがそれに根ざすことができるものではありません。
それに対して、人はしばしば、より強固で共有可能な意味の体系へと向かいます。
すでに存在している物語、あるいはかつて確かに機能していた物語へと。
しかし、その物語がすでに崩れ去っていたとしたらどうでしょうか?
次は敗戦を経て、大日本帝国という大きな物語が崩れてしまった世界。
戦後まもなくの日本に場所を移しましょう。
太宰治『斜陽』から見る大きな物語の崩壊
とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。
斜陽は、崩れゆく時代の中で生きる家族の静かな崩壊を描いた作品です。
かつて確かだった価値が失われたとき、人がどのように揺らぎ、選び、あるいは壊れていくのかが、淡々と、しかし痛切に描かれています。
この作品において描かれているのは、単に「没落した家族の物語」ではありません。
かつて人々を支えていた強固な物語が崩壊した後に、人間がどのように苦しみ、失われたものを取り戻そうとするのか、その試行錯誤の記録です。
戦後という、社会のもつ大きな物語が崩壊し、誰もが生き方に迷う時代。
旧華族であるこの家族は三つの異なる仕方で世界に向かい合います。
それぞれ母、その娘であり語り手のかず子、そして弟の直治です。
一人ひとりを見ていきましょう。
ほんものの貴族だった母
「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。
(中略)
おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」
母は、作品の中で一貫して純粋な貴族として描かれます。
変化していく現実に対してほとんど抵抗することなく、その純粋さを保ち続けます。
生活が困窮し、社会的地位が失われても、その振る舞いは大きく変わりません。
一見すると無力で現実から遊離しているようにも見えますが、その存在はかず子と直治をつなぎ止めるよすがであり、時代とともに消えゆく最後の貴族の象徴といえます。
母の周囲には、すでに崩壊したはずの物語が、局所的に維持されています。
言い換えれば、母はこの家における「反社会的な聖域」を形成している存在です。
外部の暴力的で不安定な現実から切り離された、限定的な意味の空間が、彼女の周囲には残されているのです。
しかしこの聖域は、現実に対抗する力を持ちません。
それはあくまで外部から切り離されることによって成立しているに過ぎず、持続可能なものではない。
であるからこそ、外部の影響を受けざるを得なくなっていく戦後の混乱期の中で、少しずつ母は衰弱し、結核にかかり、最後には死んでしまうのです。
この社会への復讐 かず子
衰弱していく母を見ながら、かず子は自らの生き方を模索します。
彼女は母を慕いながらも、母のように過去にとどまり続けることを拒み、現実を直視した上で、新しい生のあり方を選び取ろうとしているように見えます。
その象徴が、直治の師匠上原への恋心であり、その子どもを産むという決断です。
いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、是非とも、戦いとらなければならぬものがあった。新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく。恋。それだけだ。
しかし、この選択を単純に「独立した主体による新しい生き方」と捉えるのは適切ではありません。
かず子は過去を否定しているように見えながらも、そこから完全に自由になっているわけではないからです。
むしろ彼女は、母が体現していた価値を、自らの中で別の言葉に置き換えようとしているように見えます。
それは彼女にとって、全てを奪っていった理不尽な社会への反抗であり、これまでの「物語」を捨てて自らの意思で生きようとする試みであり、自分の想いに嘘をつかない純真さでした。
人間は恋と革命のために生れて来たのだ。
つまり彼女は、新しい物語を創造しているというよりも、これまで生きてきた中で培った貴族的アイデンティティを、今の社会への反抗として表出させているにすぎません。
その意味で、彼女は母と断絶しているのではなく、むしろ彼女なりに母を引き継いでいると言えます。
ただし、このような彼女の生き方というのは、安定した持続可能なものではありません。
彼女の語る言葉は力強く心を打ちますが、個人的な反抗心のようなものに立脚した危ういものです。
彼女は自分の作った物語を必死に守り続けることでしか生きられなくなってしまった、ともいえます。
この社会への絶望 直治
一方で、弟の直治は、まったく異なる形でこの状況に直面します。
彼は華族としての出自に強い劣等感を抱きながら、それを完全に否定することもできません。旧来の価値を軽蔑しながらも、それに代わる新しい価値を自分の中に確立することができない。
その結果として、彼はどの物語にも属することができないまま、宙吊りの状態に置かれ続けます。
いったい、僕たちに罪があるのでしょうか。貴族に生れたのは、僕たちの罪でしょうか。ただ、その家に生れただけに、僕たちは、永遠に、たとえばユダの身内の者みたいに、恐縮し、謝罪し、はにかんで生きていなければならない。
直治は酒や薬物に逃避し、社会にも適応できず、最終的には自ら命を絶つという選択に至ります。
しかしそれは単なる弱さの結果というよりも、むしろ一つの極端な帰結です。
彼は、母のように過去にとどまることも、かず子のようにそれを別の形で引き受けることもできなかった。
どの物語にも納得できなかったからこそ、結果としてどこにも居場所を持てなかったのです。
犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。
本質的な意味の喪失と、その意味を担保する物語
ここまで、「物語の崩壊」という同じ状況に対して、三者三様の応答の仕方がありました。
母はそれを局所的に保存し、かず子はそれを翻訳し、直治はそれを喪失する。
この三者はそれぞれ異なる方向を向きながらも、いずれも安定した解決には至っていません。
この点において、先に見た嘔吐との違いは明確です。
ロカンタンは、意味そのものが存在しないという地点に直面しました。
それに対して『斜陽』の登場人物たちは、意味が「かつてはあった」ことを知っています。
だからこそ、それを保持しようとしたり、再構築しようとしたり、あるいはそれができずに崩れていったりするのです。
しかし、そのどの試みも決定的な安定にはつながりません。
母の聖域は外部から切り離され、かず子の翻訳は根拠を欠き、直治はそのいずれにも耐えられない。
ここにあるのは、「物語があればよい」という単純な構図ではなく、物語そのものがすでに不安定であるという状況です。
これは、現代にも通ずるものがあるように思います。
物語とは厄介なもので、人がどのような形であれ物語に依存せざるを得ない一方で、その物語は常に外部の現実によって侵食され続ける、という構造があるようです。
完全に閉じた物語は現実に耐えられず、現実に開かれすぎた存在は意味を維持できない。そのあいだで、人は揺れ動き続けます。
では、そのような状況において、人はどのようにして安定を得ようとするのでしょうか。
個人の内面で物語を作るのでもなく、崩れた過去にとどまり続けるのでもない、別のあり方はあり得るのでしょうか。
その一つの形として現れるのが、「外部から与えられた物語」を選び取り、それに身を委ねるという選択です。
それは個人の内側から生成されるのではなく、あらかじめ用意された枠組みの中で意味を受け取るという形式を取ります。
次は現代日本に場所を移し、アイドルという偶像、推しという信仰を通して、今物語がどう利用されているのかを見ていきましょう。
『イン・ザ・メガチャーチ』が問いかける現代社会と物語
「神がいないこの国で人を操るには、“物語”を使うのが一番いいんですよ」
最後に取り上げるのは、本屋大賞も受賞した朝井リョウ先生の『イン・ザ・メガチャーチ』です。
ここまで見てきた二つの作品では、人間と物語の関係が異なる角度から描かれていました。
『嘔吐』のロカンタンは、物語が剥がれ落ちた先にある、意味のない世界を見てしまいました。
彼は存在そのものの偶然性に直面し、その気持ち悪さに耐えられなくなります。
『斜陽』の母、かず子、直治は、かつて存在した物語が崩壊した後を生きていました。
母は過去の物語を保存し、かず子はそれを翻訳し、直治はそれを喪失しました。
そして『イン・ザ・メガチャーチ』が描いているのは、『斜陽』で迎えた戦後から何十年と経ち、もはやかつて存在した物語すら顧みられなくなっている、現代の話です。
ここには、最初から物語が与えられていない人々がいます。
現代社会は自由な社会だと言われます。
しかし自由とは、同時に「何を信じるかを自分で決めなければならない」ということでもあります。
かつては家や地域共同体、宗教や国家が、人々にある程度の物語を与えていました。
自分は何者なのか。
何のために生きるのか。
どのように生きるべきなのか。
そうした問いに対して、社会の側が一定の答えを用意していたのです。
もちろんそこには抑圧もありました。
しかし少なくとも、自分が何者なのかわからないという不安は、今より小さかったでしょう。
ところが現代では、それらの大きな物語の多くが力を失っています。
国家を無条件に信じることは難しくなりました。
宗教の権威も弱まりました。
終身雇用や家制度も崩れました。
つまりは「神」がいなくなってしまいました。
しかし人間の側は変わっていません。
人間は相変わらず、自分が何者であり、何のために生きているのかを知りたがります。
つまり現代社会は、大きな物語は失われたが、物語を必要とする人間は残った、という奇妙な状況に置かれているのです。
『イン・ザ・メガチャーチ』は群像劇の形をとる小説なので、3人の主人公がいます。
久保田慶彦、武藤澄香、隅川絢子、それぞれが社会への悩みを持ち、物語に振り回されていく様を見ていきましょう。
この社会の片隅に
早く溶かさなきゃ。
私は菜箸を手に取り、白い茶碗の中をかき混ぜる。
自分のぶんも早く溶かさなきゃ。
絢子は決して特別な人物ではありません。
彼女は派遣社員として働いています。
生活が成り立たないわけではありません。
しかし将来は見通せず、自分が組織の中で必要とされているという実感も持ちにくい。
いつ契約が終わるかわからず、代わりはいくらでもいるという感覚が常につきまといます。
もちろん、そうした状況でも生きていくことはできます。
仕事をして、休日を過ごし、毎日をやり過ごすことはできるでしょう。
しかし、その生活が何につながっているのかは見えにくい。
かつてであれば、会社員として働き、家庭を築き、地域社会の一員として生きることが、一つの人生の物語として機能していました。
しかし現代では、そのような共通の物語は弱くなっています。
絢子にとってアイドルは、そうした空白を埋める存在でした。
それは単なる趣味ではなく、生きていくために必ず必要なものでした。
アイドルを中心とした世界は、彼女にとって失われた物語の代替物だったと言えるでしょう。
しかし、その物語は長くは続きませんでした。
画面が完全に切り替わったときにはもう、いづみさんは絶叫していた。
私は、タップしたあとに表示された文章を、そういう図形かのように眺めた。
アイドルは神ではありません。
そのアイドルの死は、絢子の物語を破壊し、絢子の世界を崩壊させるには充分すぎるほどのものでした。
ここで重要なのは、人間は物語を失ったからといって、必ずしも物語そのものを手放すわけではないということです。
むしろ逆に、人は失われた意味を回復しようとします。
なぜこうなってしまったのか、誰かに理由を説明してもらわなければ、あまりにも辛すぎるということです。
絢子が陰謀論へと惹かれていくのも、その延長線上にあります。
陰謀論の魅力は、事実を説明することではありません。
それは世界を再び理解可能なものへと変えてくれることです。
偶然や不条理によって壊れた物語を、別の物語で修復してくれる。
そこには悪人がおり、隠された真実があり、自分だけが気づいているという特権的な意味があります。
つまり陰謀論とは、崩壊した物語の代用品なのです。
絢子は真実を求めていたというより、失われた物語を求めていたと言えるでしょう。
最後に全てを失い、自分を使い切った先にある絢子の結末は、人はどこからでもやり直せるというある種の希望なようにも思います。
なんかもう、私、大丈夫な気が気がします。
なんていうか、自分を一回全部使い切ったみたいな感覚なんです、今。
正しさと自意識の狭間で
何してるんだろう、本当に。
もう、自分に疲れてしまった。
まだ何の行動にも出ていないのに。
澄香の苦しみは、単純な孤独ではありません。もっと根深いものです。
彼女はずっと、自分が何者なのかを知りたがっています。
なぜなら、その答えを与えてくれるものを持っていないからです。
その背景には父との関係があります。
澄香にとっての父である慶彦は、安心して依拠できる存在ではありませんでした。
愛情がなかったわけではないのです。
けれど、自分という人間を肯定してくれる存在として機能していたわけでもない。
そのため澄香は、自分自身の輪郭を家庭の中に見出すことができません。
だから彼女は、ずっと家の中で垂れ流しにされていた洋楽に、一つの救いを見出しました。
洋楽を聴いていた頃の澄香は、それを単なる趣味として楽しんでいたわけではありません。
むしろそれはアイデンティティでした。
若い頃の私たちが音楽や映画や本に強く執着することがありますが、それは作品そのものが好きだからというだけではありません。
そこに自分自身を見出そうとするからです。
澄香にとっての洋楽もまた、そのようなものでした。
しかし、そのアイデンティティは長続きしません。
なぜなら音楽は、自分が何者なのかを完全には保証してくれないからです。
どれほど好きなアーティストがいても、どれほど詳しくなっても、それだけでは自分の存在理由にはなりません。
すると再び、
「私は何者なのか」
という問いが戻ってきます。
そして現代社会は、その問いに対してあまり親切ではありません。
社会には無数の正しさがあります。
ですが、それらは生き方の指針にはなっても、自分が何者なのかを教えてくれるわけではありません。
むしろ澄香は、それらを真面目に受け止めるからこそ苦しくなります。
理想の自分と現実の自分との差が見えてしまうからです。
友人との関係や、MBTI診断などを通じて、彼女の自意識はどんどん内側へと折れ曲がっていきます。
そんな彼女にとって、アイドルは極めて魅力的な存在でした。
アイドルの世界には、現実よりもずっと明快な物語があります。
自分が何を信じればよいのかがわかりやすくパッケージングされていて、余計な多くのことを考えないようにできます。
また、MBTIという性格類型が同じである、ということは、この人は私だ、と錯覚させるのに充分すぎるほどの効力を発揮します。
そうなれば、アイドルを応援することは自分自身を応援し、自分のアイデンティティを確立させることに繋がります。
たとえその先が破滅的なものであっても。
もうひとつ重要なのは、アイドルを応援することで、自分自身にも役割が与えられることです。
コミュニティに所属し、お互いに一つの目標に向かい協力する仲間がいて、そこに居場所を得ることができます。
だからアイドルは単なる娯楽ではありません。
少なくとも彼女にとっては、自分自身の輪郭を与えてくれる物語だったのです。
しかし、その物語はあまりにも重い役割を背負わされていました。
本来なら自分を支えてくれるはずの、家族や大学でのコミュニティ、あるいは文化的アイデンティティなどが機能しなかった時。
自分を支えるあらゆるものの代わりとして、アイドルが機能することになります。
だからこそ、その物語が揺らいだとき、彼女自身もまた崩れていく。
視野を狭めないと生きてはいけないけれど、適切に視野を広げられなければ、結果的に待っているのは破滅です。
あらゆる情報が錯綜し、誰もが好き勝手に正しい生き方を説き、誰しもが何者かになれなくなってしまった。
この時代の犠牲者と言っていいのかもしれません。
人を動かすのは、広い視野を以って立証された完全無欠の正しさではない。狭い視野を隙間なく埋め尽くす、あらゆる正誤を跳ね除ける強度の思い込みだ。
物語は創られる
ただ、これからは違うのかもしれない。今後還ってくるのは、これまでやってきたことよりも、これまでやってこなかったことのほうなのかもしれない。
ここまで見てきた絢子や澄香は、物語を求める側の人間でした。
しかし慶彦は少し違います。
彼は物語を受け取るだけでは満足できなかった。
むしろ、自ら物語を作る側へと向かった人物です。
ですが、その出発点にはやはり喪失があります。
若い頃の慶彦にとって、洋楽は単なる趣味ではありませんでした。
それは世界の見方そのものであり、自分が何者なのかを教えてくれる文化でした。
どんな音楽を聴くのか。
どんな価値観に共感するのか。
何を格好良いと感じるのか。
そうした選択を通じて、人は自分自身を形作っていきます。
慶彦にとって洋楽とは、まさにそうした自己形成のための物語でした。
しかし、人間を支える物語は永遠ではありません。
若い頃に世界の中心だと思っていたものは、いつしか過去のものになっていく。
そして気づけば、自分が何者なのかを説明してくれていた言葉は力を失っています。
洋楽は売れなくなり、自分は花形部署から左遷され、過去の成果も周りから認めてもらえず、ともに戦った同期は時代に適応して大きな成果を出している。
慶彦はあまりにも行き詰まった状況においやられてしまいます。
洋楽をプロデュースしていた頃の慶彦は、物語を作る側の人間でした。
一度物語を作り、社会にムーブメントを起こす経験をしてしまえば、もうそのようにしか生きられなくなってしまうのは人の性でしょう。
なので、慶彦がアイドルビジネスに移行していったのは必然とも言えます。
アイドルとは単なる歌手ではありません。
努力し、夢を叶える姿を見せながら擬似的にファンとアイドルを同化させ、自分と同じだと錯覚させる仕組みがあります。
つまりそこには、物語があります。
それは古代の神話や宗教が担っていた機能を、現代的な形で引き受けた存在とも言えるでしょう。
そして慶彦は、その物語を設計する側へ回ります。
ここで重要なのは、彼が単に金儲けをしているわけではないということです。
もちろんビジネスとしての側面はあります。
しかし彼を突き動かしているものは、それだけではありません。
彼自身もまた、人間が物語なしには生きられないことを知っているのです。
だから彼は物語を作る。
ところが、ここから事態は少しずつ歪み始めます。
最初は自分のやりたいことのために作ったはずの物語が、客を囲い込むための手段でしかなかったはずの物語が、いつしか自分自身を支える唯一の根拠になっていく。
慶彦は物語を操作しているつもりでした。
ですが、依存性の高い狭いコミュニティを作り、熱心な信者を作り金を払わせるビジネススキームは、いつしか自分自身をもその物語に取り込んでいきます。
そしてそれは、ある意味で必然だったのかもしれません。
なぜなら慶彦自身もまた、物語を必要とする一人の人間だったからです。
神を失った時代において、人は神話を作り続ける。
共同体を失った時代において、人は共同体を設計し続ける。
意味を失った時代において、人は意味を供給し続ける。
慶彦はその象徴です。
彼は物語を売っているように見えて、その実、自分自身もまた物語によって生かされていたのです。
たとえ社会や会社から後ろ指をさされても、正解よりも本物の気持ちのほうを抱きしめて、愛する人との時間をもっともっと設けるべきだった。どうしてそんなことが今までわからなかったのだろう。
おわりに
『物語』をテーマに、三つの小説を見てきました。
これらの小説を読んでいると、昔から人間はきっと何かに縋って生きていて、確からしいものがないと生きていけなくて、何かしらに肯定されなければ不安で仕方がない。
そんな人間の弱さが見えてくるようです。
人生に答えはありません。
なので、こういうことを考えても意味はないのかもしれません。
でも、やりきれない不安に襲われた時。
悲観せず、依存せず、何か重たいものを抱えながらでも日々を生きていくために。
たまには『物語』に向き合ってみるのもいいかなと、少しでも思っていただけたら嬉しいです。
長文、お付き合いありがとうございました。
