キャバクラ実録『遊真 ― 夜の町田に溺れた男 ―』 第19夜「シャンパンの恨み」

第19夜「シャンパンの恨み」


「殺してやる」は誰に向かって言ったのか。

「シャンパンを抜かないのは、その分、会いに来る回数を重ねたいから」というのは本当か。

シャンパンを抜かない理由は、ほかにもあるのではないか。

かなでの質問に答えるため、まずは「回数を重ねたい」という話からすることにした。
「昔、まーみちゃんって子がいてね……」

俺が昔、地方にいた時のことだ。
手伝っていた店は、スナックのような、ラウンジのような店だった。
30半ばのママさんと、スタッフのミキちゃん、二人で回せるぐらいの小さな店だった。

その店を手伝うことになったのは、ささいなことがきっかけだった。
これについては、いずれゆっくり書きたい。

店は、繁華街のど真ん中にあった。
21時のオープンからは客の波も穏やかで、サラリーマンやカップルがポツポツ来る程度だが、午前0時をまわったあたりから明け方まで、キャバクラや風俗の嬢やボーイ、店長なども押し寄せ、一気に賑やかになる。
その常連客の一人が、まーみだった。

まーみは国立大学の院生で、くりっとした大きな目、アヒルのようにきゅんと上がった口、肩に付くぐらいの髪を、時々ポニーテールにしていた。バレーをやっていただけあって、俺と身長はさほど変わらなかった。千葉県の生まれで、こちらに来て何年もたっているのに、方言に染まらない子だった。

近くの居酒屋でのバイトが終われば、必ずと言っていいほど店に顔を出してくれた。

まーみの飲み方は静かで、いつもカウンターの隅で入れたボトルの酒をちびちびと飲んだり、時には違った酒を頼んだりしながら、乾きものをつまんでいた。初めて来てから3年半、変わらずこんな感じだったらしい。

最初の頃、ママは「なんでこんな真面目そうな子が、うちの店に来るんだろう」と不思議に思っていたという。それが、何度も顔を合わせ、ママやミキちゃんと言葉を交わすうちに、いつしか二人ともまーみが来るのが楽しみになった。後から店を手伝うようになった俺とも、次第に打ち解けていった。

まーみの方が、わずかながら歳上だったこともあり、俺のことを弟みたいだとよく言っていた。俺も姉が欲しかった。兄の嫁、つまり義姉が最悪な人間だっただけに、俺にとってもまーみは姉のような存在だった。

気が合った俺たちは、いつもくだらないことで言い合ったり、時には怒られたりもした。そんな俺たちを見て、ママさんはよく言っていた。「まるで、サザエとカツオ」。

まーみは「お金にならない客でごめんね」とよく言っていたが、そんなことはなかった。
まーみがいるだけで、ママさんもミキさんも、そして俺も、なんとなく心が和んだ。

まーみが来店してしばらくすると、深夜組がどっと押し寄せ、店内が一気に騒がしくなる。その中で、彼女はどこか居心地悪そうに、ひっそりと飲んでいた。1時間、2時間いるとサッと帰る、そんな子だった。

そのまーみが、卒業でこの地を離れることになった。春から青森で働くという。

最後の夜は、感傷的になったのか、いつもより飲む量も多く酔っぱらっていた。

「私は、私なりにこの店が好きだった。遅くに来る人たちに比べて、はるかに地味なお金の使い方だったのに、いつでも快く迎えてくれた。どこか温かくて、落ち着く場所だった」

お別れに、こんな感じのことを言っていた。

大学では研究に追われ、バイトでは客に気を遣う。そんな彼女にとって、唯一、心休まる場所が、この店だったという。

俺は翌日から帰省することもあり、その日は早上がりだった。
自転車のカギを開けようとしていたとき、
少し先にまーみの姿が見えた。

俺は、一目散に駆け寄り、
一緒に歩いて帰ることにした。
まーみが住んでいるであろう場所まで、
歩いて30分はかかる。
最後に二人で歩けるなら、別に構わなかった。

2月の澄んだ星空、華やかな街の灯り、そしてまーみの横顔。どれも見分けがつかないほど輝いて見えた。


繁華街から入った路地

小さな川沿いの遊歩道

駅横あたりから続く薄暗い高架下

そこを抜けると、車の往来の激しい大通り

二人で歩けることが嬉しくて、いつまでも歩いていたかった。

この寂しさは、どこから来ているんだろう。
いつもちょっかいをかけてくれた、姉さんのような人がいなくなるからだろうか。

それとも、俺はまーみに、一人の女の子として想いを寄せていたのだろうか。

俺にはわからなかった、わからなかったんだ。

まーみのアパート近くにまで来た。
別れを惜しむように、立ち話は続いた。

お別れの言葉のあと、俺は自転車を走らせ、ひとり帰った。いつもの道のりが、やけに長く感じた。

人との時間は、金を使えば濃くなるわけじゃない。何度も顔を合わせることでしか生まれないものがある。そんなことを、まーみから教えてもらった気がする。

「なんだか、遊真さんって、まーみさんのコピーみたい。いやコピーだよ、言ってることとか」

「え、やっぱそう思う?」

その通りだった。まーみのことも、俺のこともわかってもらえた気がして、なんだか嬉しかった。


「さて、お待ちかねのシャンパンの話だな」

「うわー、遊真の謎が解けるのかぁ」

かなでは興味津々な顔でタバコの火を消した。


ある日の昼過ぎ。
アパートの留守電にメッセージが入っていた。
ママさんからだった。「今日、6時ぐらいに店に入ってほしい。」
店の準備にしては早すぎる……俺は首をかしげながらも行くことにした。

予定より早く着いた5時半すぎ。
店の奥には、女の子が二人座っていた。

ママは目で合図した。
どうやら、二人は俺に用事があるらしい。

席に向かうと、一人は馴染みのエリだった。
もう一人は、エリと同じ店の子で、アユミという子だった。たまに、店に来ていた子なので覚えている。

二人は、どちらから話し始めるかを決めようとするように、もじもじと顔を見合わせていた。口火を切ったのはエリだった。

「ねえ、Riseって店知っとる?」

「ああ、知っとる。よー知っとる」

Rise……今でいうホストクラブのような店だ。
その名前が出たことで、俺は身構えた。

話を聞けば、アユミはRiseの男に入れ込んでいるらしい。引きずられるように通い続け、湯水のように金を使い、二枚のカードも限度額に達していた。金も身体も削られ、すでにボロボロだった。それでも、アユミはそこから抜け出せずにいた。

「カズ、大学にクガって人おる? ダブっとるから、カズと同じ学年のはずなんじゃけど」

「久我じゃろ、よー知っとるわ」

知っていると言いながらも、怪訝な顔を見せる俺を見て、好ましくは思っていないことを察したのだろう。

「どねーな人なん? 知っとるんなら教えてーな」

「どこまで話せばえーんじゃ? 言うてええこと、悪いことの判断がつかん」

「全部じゃ、知っとること教えてーな」

エリはアユミの顔を見た。アユミはこくりとうなずいた。

「どねー思うかは知らんで。知っとること話すがな」

久我と、その連れの川原、竹内、三人まとめて「ダブりブラザーズ」と呼ばれていた。
川原と竹内は、昼のバイトで知り合った。その関係で、俺は久我と関わるようになった。

俺から見ると、久我は的場浩司の大劣化バージョン。不良になりきれない男といった感じだった。

久我が夜のバイトをしていることは知っていた。なぜなら、いつも、その自慢話ばかりだったからだ。

「あー、昨日も店の客とエッチしてしもーたわー、店長に殴られるわー」

これはいつものあいさつ代わりのようなものだった。

久我は、夜の仕事で女から金を使わせることを、まるで武勇伝のように語っていた。
客を馬鹿にする話も、女をオモチャのように扱う話も平然と口にしていた。

久我と川原、こんな信じられない会話もあった。

「よー、久我、ええ女おらんかな」

「もー飽きたんか、おるで、ええのが」

「どねーな女か」

「ええ身体しとるわ、締まりがええんじゃ、ギュウギュウっての」

「おー、ええの、紹介せーや」

「おお、ええで」

「いつもすまんのー」

川原と竹内は、久我が用済みの「お古」と称する女の子たちをあてがってくれと、ことあるごとに頼んでいた。

これが大学生の会話か……俺は耳を疑った。

久我は俺によく言っていた。

「なあ、誰かええ女の子おらん? 店長が客を呼べってうるせーんじゃ」

もちろん、耳を貸す気はなかった。


それから数日後、昼のバイトの時に川原と竹内に、たまには飲みに連れて行ってくれと頼んでみた。

いつもは反抗的な俺が、従順な甘えっぷりを見せて気分が良かったのか、即、OKした。

土曜日だった。
21時すぎから居酒屋で飲み、ひとしきり飲んだ後にどこへ行くかを話していた。

「久我さんの店に行ってみてーな。久我さん、夜もカッコえーんじゃろ」

久我を持ち上げまくる俺に、二人は快諾した。
この頃から、俺はアカデミー賞ものの演技力を発揮していたのだろう。

店内はそこそこ賑わっていた。
ホストは4人。そのうちの一人が久我だった。

「おー、和彦も来てくれたんか、ありがとうな。ゆっくりしていってーな」

久我は偽りの優しい笑顔とともに、俺の肩をポンポンと叩いた。
俺はうんともすんとも言わずにおいた。

川原と竹内を見ると、さっそく店内の女の子を目で漁っていた。

やがて手が空いた久我が、一本のシャンパンを手に俺たちの席に来た。
久我の奢りらしい。

「このシャンパンな、仕入れ値いくらじゃ思う? やっすいでー。それが店で出せば何万円、俺の喋りでどんどん空になってくんじゃ」

自慢げに語る久我が注いだシャンパンを、俺は一滴たりとも口にしなかった。

どのくらい経っただろう、俺はまるでドラマのワンシーンのような出来事に直面した。

斜め左前の席に案内された一人の女の子。

アユミだ。

すぐに隣に久我が座った。アユミにまるで恋人のように寄り添い、何やら話しかけていた。

そのうち、久我が小刻みに顔を上下に動かした。何かをお願いしているようだった。

間もなく、席に一本のシャンパンが運び込まれた。俺たちの席の瓶よりも太い。

二人は顔を見合わせ、シャンパングラスを重ねた。

久我がアユミの席を立ってから数分後、場内にけたたましく音楽が鳴り響いた。
玄米CLUBの「Shake Bust!」に合わせて、久我がステージで陶酔しきったように歌い始めた。

うっとりと聞き惚れる女、手拍子で盛り上がる女。アユミは、ただうつむいて一点を見つめていた。

俺は、なんとも言えない嫌な感覚に包まれた。

店を出るとお開きとなった。
川原、竹内は俺とは反対方向。悠々とタクシーに乗って引き上げていった。

俺は居ても立ってもいられず、ママさんのところに駆け込んだ。

「Riseに行ってきたで」

「久我はおったか?」

「おお、おったで。アユミも来とったで」

ママは険しい表情を浮かべた。その横で、ミキちゃんが洗い物の手を止め、こちらを心配そうに見ていた。

興奮した俺に、ママは一杯の水割りを差し出し、黙って話を聞いてくれた。

間もなく、店のドアが開いた。
アユミだった。

その瞬間、さっきのアユミの沈んだ表情が、ふいに頭をよぎった。

「俺がおったん、わかったか?」

「わかった。一緒におった二人が、久我の連れなん?」

「YES」

ママさんと一緒に、アユミの話に耳を傾けた。

自分でもダメだと思っている。でも、頭ではわかっていても、気持ちが収まらない。

まわりの子がシャンパンを入れると、負けた気がして自分も入れてしまう。

久我が離れて行ってしまいそうで怖い。この一本で、つなぎ留められているような気がする。

忘れられたくない、他の人に取られたくない

そんな言葉を堂々巡りのように繰り返していた。

アユミの言葉には、久我への執着と、捨てられることへの恐怖心が入り混じっていた。

いい加減、酒がまわったのだろうか、俺は立ち上がった。

「久我んとこ行ってくらあ」

「和彦、やめ!」

「ぶっ殺す! 土下座させてぶっ殺してやるわ!」

「和彦!」

店を出ようとする俺に、ママさんは思い切りおしぼりを投げつけてきた。

「和彦! あんたの中の正義だけが、正しいとは限らんのよ、世の中みんなそうじゃ!」

ママさんの厳しい表情、怒鳴り声は初めてだった。店内には、幸い、常連中の常連客4人がいただけだった。

俺は振り上げた拳の降ろしどころを失ったかのように、沈黙するしかなかった。

あのときの俺は、アユミを守らなきゃいけないと思っていた。彼女でも何でもない、ただの客だった。それなのに、自分が助けなきゃならない。まるで、自分だけが彼女を救えるような気になっていた。


「なんか、切ない話だね……」

何とも言えない顔をするかなでに、この一件の悲しき結末を話して、昔話は終わった。

「話してくれてありがとう。そんな過去があったんだって、ビックリ」

俺は、ため息まじりに笑って言った。

「俺はね、大学生ながらに知ってしまったんだよ」

「何を?」

「あのとき、俺は夜の世界の仕組みを見たんだ」

キャバクラに置き換えながら、あの頃に感じたことを話した。

「一本のシャンパンが、ただの酒じゃないってこと。その一本で、女は男の価値を見定める。シャンパンだけじゃないよ、延長の回数、ドリンクの杯数……使う金額で女は男を値踏みする。男はまるで、自分の価値が上がったかのように勘違いする。その価値を確かめるかのように、さらに金を放つ。そんな夜の世界の醜さを知ってしまったんだ」

「……だから、シャンパン抜かないの?」

「それもある」

「それも?」

「うん。一本で何万円も使って、その金額で自分の価値まで決められるみたいなのが、俺は嫌なんだよ。シャンパンを抜いたか抜かないか、いくらのシャンパンを抜いたか、そんなことで客を見るキャストなら、どうぞ俺を切ってくださいって感じなんだわ」

「私のことも、そう思ったの?」

「何が?」

「……ううん」

「なんだよ」

「あの時、めっちゃ酔っぱらって涙止まらなくて。なんで私のこと見てくれないんだろ、なんで私の気持ちがわからないんだろ、なんで私から離れていったんだろ、このクソバカ野郎!って思って、袖を引っ張り回しちゃって。ぶん殴ってやろうかと思ったんだ。ボーイが割って入らなきゃ、殴ってたよ、絶対」

「おい、覚えてるじゃねーか」

かなでは、胸の内を吐き出せたように、穏やかに笑った。

かなでの言葉を受け止めた後、俺は、ふっと話題を変えた。

「これ、だーれだ?」

俺は紙焼き写真をスマホで撮った一枚の画像を見せた。

「え…………え!え!え! もしかして!」

あの頃の俺だった。

「別人じゃん!……え、この頃、何キロだったの?」

「そこかよ!」と、俺は思わず声を上げて笑った。無理もない、今では20キロも太ったおっさんだから。


「かなで、夜の世界はどうだった?」

「えっ……知ってるの?」

過去形で聞いた俺の言葉に、一瞬、戸惑った表情を浮かべた。

「もう卒業だから、夜から抜けるんだよね」

「ま・た・か・よ・ちゃ・ん・か・」

情報源に察しが付くと、かなでは猿が引っ掻くようなキーキーとしたジェスチャーを見せた。

かなでとの夜も終わりを迎えた。

「遊真さん、楽しかった。最後に、わかってもらえて良かった。ありがとう」

深緑のワンピースのかなでは、深々と身体を折った。俺が見た最後の夜の姿だった。

かなでとのお別れの余韻も冷めやらぬ中、
夜の街で俺を支えてくれた人との間にも、
一つのサヨナラが訪れることになる。

誰のことか、もうわかったと思うけど。


※本編は事実に基づいた内容ですが、プライバシー保護のため、人物名および店名はすべて仮名としています。

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