キャバクラ実録『遊真 ― 夜の町田に溺れた男 ―』 第20夜「さよならの理由」

第20夜「さよならの理由」


めずらしいな…

俺は首をかしげながら、足早にエメラルドに向かった。

「近いうちに会いたいんだけど、いつぐらいに来れそう?」

海さんと出逢って、もう三年の月日が流れていた。

営業LINEなんか一度も送ってこなかったのに。


いつものように海さんが席に着く。

「どうしたの? 来いって言われたの初めて」

「会いたくなっちゃうこともあるのよん!」

俺の酒を作ろうと、おどけた口調でボトルの栓を開けた。

乾杯の後は、グラスを傾けながら、ひとしきり他愛のない話をした。


「さて、ご報告です!」


海さんは姿勢を正して座り直し、改まった表情を見せた。


「遊真、お別れだよ」


「…………はっ?」


「来月いっぱいで店を辞めるんだ」


「えっ! 店で何かあったの? なんか揉めたの?」


目を閉じて、静かに首を横に振った。


「えっ!……じゃあ、そういうこと?」


「うん、そういうこと」


その微笑みは、どこか自信に満ちていた。
俺たちは手を取り合って喜び合った。

海さんは夢を追い続けていた。
やっと、その時が来たのだ。

「よかった、俺も嬉しい!」

「諦めようと思ったこともあったよ。でも、遊真がいつも励ましてくれてたから」

気丈な海さんも、時折、一人の夢を追う女性として弱音を吐くこともあった。

俺さえも忘れていた言葉の一つひとつを拾い上げ、何度も礼を口にしてくれた。


お別れの日。

俺は小田急の大きな改札を出ると、左手に見える花屋に足を向けた。

出来上がった色とりどりのブーケが並ぶ。
どれを見てもピンとこなかった。

「花束ですか? おつくりできますよ」

考え込む俺に、店員さんは声をかけてきてくれた。

「お相手は男性ですか? 女性ですか?」

「女性です」

「お誕生日ですか?」

「あ、いや、今日で仕事が最後の人に……」

「職場の方ですか?」

「いえ、キャバクラの女の子です」

「その人、どんなイメージですか?」


イメージ……


そんなふうに考えたことなど、一度もなかった。戸惑いながら言語化を試みる中、ふっと初めて会った時のドレス姿が浮かんだ。

「赤かな」

店員さんは、慣れた手つきで花を一本、一本手に取り束ねていった。
鮮やかな赤いバラたちをメインに、やさしい暖色系の花が顔をそろえていく。


「いらっしゃいませ」

ボーイに先導され席に着くと、すぐに海さんはやってきた。
出逢った時と同じ赤のドレスだった。

「奥に行くよ」

「奥?」

今度は海さんに案内されながら、店の奥へと進んだ。

「なんだ、この部屋は」

よくわからないが、そこはVIPルームのような雰囲気だった。

「大丈夫、お金は気にしなくていいから」

やっぱり、それなりの部屋だったんだ。
身体が沈み込むような、いつもとは違うソファー。
他の客の姿もない、二人きりの空間。

「これ」

花束を海さんに差し出した。

「えっ、私に?」

「今日で最後だから」

海さんは少し驚いた顔をして、花束を受け取った。

赤いバラを中心にした花束。

「バラと周りの花とのコントラストが素敵だね」

「うん。海さんのイメージで組んでもらった」

「ありがとう」

海さんは、バラの花にそっと指を触れた。


最後だから、シャンパンぐらい……と思い、俺はメニューを開こうとした。

「ダメ!」

海さんはメニューを取りあげた。

「えっ、何でよ? 最後なんだから」

「ダメ! それじゃあ遊真じゃなくなる。最後だからこそ、いつものようにだよ」

奪ったメニューをスタンドに戻し、海さんは微笑んで言った。


話題は出逢った時のことから始まった。

何といっても、この名前だ。


「遊真」


実は、名付けてもらった名前とは違う。
ここでは、店名も名前も全て仮名ということで、そこだけは変えている。


本当は「遊〇」。
「遊」に続く漢字一文字が違う。


「遊ぶ時は真剣に遊ぶ、まっすぐキレイに遊ぶ。そんな人になってくれたら素敵だなと思って」


俺は何度か、名前の由来をそう書いていたが、本当はそんな単純なものじゃない。当時、40半ばの俺に、海さんが想いを込めた名前。


「遊」に続く一文字には「華やかな夜の世界で、ひときわ輝いてほしい──」


そんな願いが込められていた。


「名前ね、インスピレーションよ! 一発で浮かんだよ。色気のある人だなって思ったし、この人には、こんな感じで夜を楽しんでほしいなって」


「色気? 俺ってやっぱり、そんなにエロそうだった?」

「違う、違うよ」

海さんは手を叩いて大笑いした。

「表情からしぐさ、使う言葉ひとつにしても、なんか妙に艶があったんだよ。変なフェロモンをばら撒いてる感じっていうか」

海さんは、当時の俺を思い浮かべるように、目を細めた。

「それがね~、だんだんと~、単なる人のいいおじさんっぽくなっていっちゃって~」

最後まで一言多い海さんだった。
返す言葉もなく、ただ笑ってごまかしておいた。


俺の学生時代の話にも花が咲いた。
まだここでは書いていない出来事の数々も含め、ほぼ全てのことを話した。

「あー、やっぱりね! どうりで!」

勢いよく、左肩に手を乗せながらもたれかかってきた。
それまで、俺に対して感じていた「何か」の正体を、ようやくつかんだようだった。

そのうち、ボーイが海さんに指名が入ったことを伝えに来た。
一緒にやってきたヘルプの女の子。悪いが、顔も名前も覚えていない。
ただ、紹介する海さんの口ぶりからすると、次はこの子で! と推薦していることがうかがえた。ヘルプの子とは何を話したか、これもまた覚えていない。


「もう、夜の世界とはきっぱりお別れ。何の未練も悔いもないよ」

「ここで過ごした時間も、出逢った人たちも、思い出として残していきたい。でも、夜の世界とは今日を最後にきっぱりと縁を切るから」


あと数時間で夜の仕事を終える海さんの言葉は、意外にもサバサバとしたものだった。
振り返ることなく、次の人生を歩いていく――そんな潔さだった。


最後まで俺のことを気にかけてくれた海さん。

「私なんかより素敵で、遊真好みのボーンとしたスタイルで、優しい女の子と出逢ったら、一瞬で私のことなんか忘れちゃうよ」

俺は、ありとあらゆる言葉をもって全力で否定した。

「きっと出逢えるよ……そんだけチョロチョロいろんな店を渡り歩いていれば(笑)」

「やっぱり一言多いな!(笑)」

俺の突っ込みなどどこ吹く風。悪びれる様子もなく続けた。


「その人が最後の女神なのかもね」


まさか、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。

その言葉を聞いた瞬間、中島みゆきの曲がふっと頭に浮かんだ。

曲のタイトルも、「最後の女神」。

海さんの口から出た言葉と、記憶の中にあった曲のタイトルが、ぴたりと重なった。

言葉にならないSOSの波を、誰かが受け止めてくれるのだろうか。
その女神は、まぎれもなく君を待っていた。


先の見えない中でも、最後まで希望を信じる――そんな曲だった。

不思議なものだ。
海さんの言葉と記憶の中の歌が、思いがけないところで重なった。

「遊真、いろいろと気を付けてね。夜はやっかいだから」

「ああ、今度は500万を要求されるかもね」

「そうじゃなくて」

海さんが何を心配しているのか、少しずつ見えてきた。

「本当の怖さは、人間の欲と執着なんだから。余計なことに首を突っ込んじゃダメだよ。遊真は人がいいから」

わかっていた。
俺は核心を突かれた動揺を隠すように、一気に酒を飲み干した。

その時、グラスの下に敷かれていたコースターが目に留まった。
円形の、真っ白な紙製のものだ。


「海、これにサインくれよ」

「いいよ」


差し出した、紙製のコースターにさらさらとペンが走る。


「これ、プレミアものになるんだからね。ヤプオグなんかに出しちゃだめだよ(笑)」


楽しかった時間も、残りわずかだった。
弾んでいた二人の会話も少しずつ途切れていった。

セットの終わりが告げられた。
エレベーターに向かう、いつもの廊下。
ここを一緒に歩くのも、これが最後。


20台半ば。

俳優の吉高由里子にも似た整った顔立ち。

細身で小柄。

その華奢な身体で、毎夜、店の数字を大きく動かしていた。

その海さんの姿も、いくつもの思い出も、心の中で一つひとつパッキングされた。

「LINEはしようよ、これからも仲良くしたいよ」

その言葉に、海さんは唇をかみしめるようにして、一度だけゆっくりと瞬きをした。
どこまでも嘘のつけない人だった。


「今までありがとうございました」


エレベーターに乗り込んだ俺に、海さんは深々と礼をした。


「ありがとうございました」


海さんの気持ちに応えて、俺も静かに頭を下げた。

ドアが閉まった。
静かに下降する箱の中、不思議と涙の一つも流れなかった。
妙に清々しい気持ちだった。

一人の女性が夢を叶え、華やかな世界に羽ばたいていく。
その瞬間に立ち会えたことが、何より嬉しかったのかもしれない。

その夜、海さんから丁寧なLINEが届いた。
3年間を集約するような言葉が綴られていた。もちろん返信はした。

数日後、恐る恐るLINEのブロックチェックをした。

「海はこのスタンプをもっているためプレゼントできません」

あの時、海さんの表情から伝わってきたこと……それが、確かなものとなった。

お別れの時は、あんなに晴れやかな気持ちだったじゃないか。
今ごろになって、なぜこんな気持ちになるんだろう。

「海、ありがとうございました」

こみ上げてくるものをこらえながら、俺はそっとスマホを伏せた。



※本編は事実に基づいた内容ですが、プライバシー保護のため、人物名および店名はすべて仮名としています。

いいなと思ったら応援しよう!