性善説と性悪説 〜唯識仏教の視点では〜
九條です。
世の中には「性善説」と「性悪説」とがありますね。人の根本的な性質は「善」か「悪」か、そのどちらなのか…という課題(問題提起)だと思います。
よく、
「性善説に立脚すれば…」
「性悪説的な視点で論じると…」
などとも言われますね。
しかし、人の根本的性質(心/本性)は、善か悪かという二項対立的な単純なスケールで測ることができるものなのでしょうか?
私は半世紀以上生きてきて、自身の心の動きや周りの人たちの心の動きを観察してみると、それは否だと思います。
私が自身の心の動きや周りの人たちの心の動きをじっと観察してきて感じることは、
人の心は非常に美しくて繊細なグラデーションを描いている
ということです。
あるときには善の部分が大きくウエイトを占め、また、あるときには悪の部分が大きくウエイトを占める。
人によっては、その「心のグラデーション」のスペクトラム(分布/領域)は、色の濃い部分が多い人もいれば、色の薄い部分が多い人もおられる。それがその人の「個性」であると思います。
唯識仏教(法相宗)的な認識では、人は生まれた瞬間は、何色にも染まっていない真っ白(または無色透明)な心(末那識及び阿頼耶識)の状態である。
その後、両親をはじめ周りの人たちの心の状態(性格)や周りの様々な環境の影響を受け、また自我の芽生えや社会性の獲得の過程などにおいてその真っ白(または無色透明)な初期状態の心の上に様々な色が厚く塗り重ねられる(前六識)と考えます。
そして一生を終えると、心は初期化されて再び生まれ変わる(輪廻転生する)と…。
ですから、周りの人に何かを働きかけるときには、相手の性格や相手の心の動きをよく観察して、なるべく相手の心(のグラデーション)の中で「善」(善意)の部分に働きかけることで、自分も周りも幸せになれるのだと思います。
自身の心の動きを客観的に見つめる(観察する)こと、そして周りの人の心の動きをよく感じ取ることは、人として生きていくうえで、自分も周りも幸せになれるとても大切なことだと思います。
この、
◎自身の心の動きを客観的に観察する
◎周りの人の心の動きをよく感じ取る
◎そうすることによって心とは何かを知る
ということは、唯識仏教(法相宗)の最も基本的かつ根本的な修行となっています。^_^
©2026 九條正博(Masahiro Kujoh)
剽窃・無断引用・無断転載等を禁じます。
