歴史を論じる際の流儀 〜映画『開戦前夜』騒動に思うこと〜
九條です。
映画『開戦前夜』が物議を醸していますね。
この『開戦前夜』は、昨年(2025年)に放送された、NHKスペシャル『シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~』をもととして、映画化に際してストーリーを再構成したもののようです。
なぜ物議を醸しているのか…。
まず、その原作者は歴史学者や歴史の研究者などではなく、作家(物書き)です。
そして問題の原因は、映画制作にあたって、歴史的事実を扱う基本的なルール(流儀)を無視した構成がなされた点にあるのではないかと私は感じます。
ある歴史的事象(事実)についての諸説を述べ、その上に立って仮説(自説)を論ずる際には、基本的に、
(1)その事象(事実)の提示
(2)その事象(事実)に関する諸問題(課題)の提示
(3)その問題(課題)に対するこれまでの研究成果(詳細な研究史)の提示
(4)新たなる視点の可能性の提示(仮説の提示)
(5)新たなる視点に立った際に生ずるこれまでの研究成果との相違(矛盾点や課題など)の提示
(6)上記の相違点(矛盾点や課題など)に関する自説の提示
(7)自説による結論と今後の課題の提示
といった論法で論理を展開する必要があります。これは、歴史を論ずる際の鉄則であり、基本中の基本であり、全ての論理の根本となるルールです。
しかしながら、かかる映画『開戦前夜』においては、それに先立つNHKスペシャル『シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~』を観たときの私の率直な感想として、
「自分たちにとって都合の良い論理だけを寄せ集めて(すなわち各論の自分にとって都合の良いところだけをつまみ食いをして)、それでストーリーを組み立てているな」
と感じました。
それは、歴史学においては絶対にしてはならない、断じて許されない論理の組み立て方です。
自分たちにとって都合の良い論理だけを寄せ集めて(つまみ食いをして)、ストーリーを組み立てるような者に歴史を論ずる資格は微塵にもありませんし、そのような者は学界から追放され、永久に相手にされなくなります。
むしろ、自分たちにとって都合の悪い論理をたくさん集め、そのうえで、
「視点を変えればこのような論理の展開も可能ではないか」
と仮説を立てることこそが、歴史学の(と申しますか全ての学問の)基本中の基本のルール(流儀)であるのではないかと思います。
それには、これまでの研究成果の詳細な検討が必要であり、したがって仮説を立てるまでには膨大な時間を要します。
翻って、かかる映画が、完全なるエンターテインメント(フィクション)として制作された映画であるならば、それはエンターテインメントとして(フィクションとして)楽しめば良いわけです。
しかし今回の問題は、生半可に事実としては疑わしい事象について、自分たちにとって都合の良い論理だけを寄せ集めて(つまみ食いをして)、ストーリーを組み立ててしまったというその姿勢が「歴史的事象に向き合う真摯さ、誠実さが欠落していた」ために起こった騒動であるのではないかと私は感じます。
©2026 九條正博(Masahiro Kujoh)
