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【世界遺産登録】文化圏からみた飛鳥・藤原宮

(1)はじめに
このたび「飛鳥・藤原の宮都」が、世界遺産に登録される運びとなりましたね。

私は、学生時代から何十回と飛鳥の地を歩いてまいりましたし、また、学生時代には奈良国立文化財研究所飛鳥資料館や奈良県立橿原考古学研究所付属博物館でアルバイトをさせていただいたこともあります(博物館実習を受けたのは京都国立博物館でしたが)。

飛鳥時代・飛鳥文化そして飛鳥の地域は私の研究フィールドです。ですから今回の世界遺産登録決定には、万感の思いがあります。


(2)飛鳥と藤原の地
飛鳥地域と藤原京域とは隣接し、一部重なっている部分もあります。

飛鳥地域において、歴代の各宮が置かれていたものが集約的に藤原宮となり、京域を形成し藤原京となったものと考えられます。

文化史的には、藤原宮(藤原京)の時代は白鳳時代となりますが、文化的様相をみると飛鳥文化も白鳳文化もともに朝鮮半島の文化の影響を受けています。

これは、奈良時代の天平文化が遣唐使によって齎された唐文化の影響を強く受けている事とは様相を大きく異にしています。

より詳しく見ると、飛鳥文化は主として百済文化の影響下にあり、白鳳文化は主として高句麗文化および新羅文化の影響下にあると言えますが、飛鳥時代においても白鳳時代においても、現実には混在している様相を呈しています。

政治史的には、藤原宮(藤原京)の時代も飛鳥時代の延長線上であり、すなわち飛鳥時代も白鳳時代も、ともに諸豪族による連合政権であり、大王オオキミが強大な権力を集中的に持つ中央集権的国家体制の様相を呈していた奈良時代とは大いに異なります。


(3)時代の転換期
飛鳥時代と白鳳時代との画期を成す事件が、西暦645年の乙巳の変です。

この事件は飛鳥板蓋宮いたぶきのみやにて起こりましたが、その後板蓋宮は廃されて同地に新たに浄御原宮きよみはらのみやが営まれました。

しかし同地は、上述のように凄惨な事件が起こった地であり、この事件によって女帝の皇極天皇も退位されました。おそらくそのような忌避があり、天武・持統天皇は、壬申の乱後に新宮を計画していたものと思われます。

その新宮こそが藤原宮であり、そこに中国風の京域を持たせて、わが国最初のみやこである藤原京が形成されたものと考えられます。


(4)藤原宮の原型
藤原宮の濫觴を辿れば、古くは雷丘の麓に営まれた飛鳥小墾田宮おはりだのみや(※後の小治田宮とは別)であり、すでに板蓋宮、浄御原宮においては、その雛形は完成していたものと考えられます。

ですから、突如として中国風の宮都(みやみやこ)である藤原京が誕生したのではなく、それ以前に代々飛鳥の地に営まれてきた宮の最終段階として藤原宮が営まれ、そこに中国風の京域を持たせたものが藤原京であると考えられます。


(5)まとめ
このように見てくると、飛鳥と藤原の地は時間的にも空間的にも連続性がみられ、実際に藤原宮以前に飛鳥の各々の宮に仕えていた官人たちは、飛鳥に居を構えたまま藤原宮への出仕も可能な距離感があります。

後の平城京とは相当な距離があり、平城宮へは飛鳥からの通勤は不可能に近いことから、やはり飛鳥と藤原には時間的にも空間的にも連続性があり、それに対して平城京は隔絶した位置にあるという事ができます。

より詳しくお知りになりたい方は、私の過去のレポート『【日本書紀 講読】飛鳥の宮 〜宮と都市文化の黎明〜』


をご覧になってください。註もすべて上記レポートに譲ります。 


2026(令和八)年7月27日
九條正博


©2026 九條正博(Masahiro Kujoh)



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