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【かわいい海牛が消えると海草も黙る――ジュゴンは海の芝生を刈る最後の庭師かもしれない】“かわいい海牛”が消えると海草も黙る――ジュゴンは海の芝生を刈る最後の庭師かもしれない


熱帯から亜熱帯の浅瀬に広がる海草藻場は、二酸化炭素を吸収し、無数の魚類を育む「海洋の肺」であり「揺りかご」です。この広大な青い草原を、数百万年にわたって手入れし続けてきた真の主役がジュゴンです。彼らは単に海草を消費する受動的な存在ではなく、海底を耕し、堆積物を循環させ、自らの食料供給源である藻場の品質を主体的に管理する「生態系エンジニア(エンジニア種)」としての役割を担っています 。

しかし今、この「海の庭師」たちは、世界各地で静かな、そして決定的な危機に瀕しています。2024年から2025年にかけて、タイでは海草の消失に伴う衝撃的な「餓死危機」が報告され、日本でも沖縄の北限個体群が生存の瀬戸際に立たされています 。彼らが海から消えることは、単に一種の海洋哺乳類を失うことにとどまりません。それは、庭師を失った庭が荒廃するように、沿岸生態系そのものの機能が崩壊し、炭素貯蔵能力や漁業資源といった海の恵みが根底から損なわれることを意味しています 。

本レポートでは、最新の学術的知見と2025年現在の生息状況に基づき、ジュゴンという存在が沿岸景観にもたらす真の意味を解き明かします。「絶滅の危機にある愛護対象」という視点を超え、沿岸生態系のレジリエンスを支える最後の砦としてのジュゴンの価値を再定義し、私たちが守るべき「海の景色」の未来を提示します。

熱帯および亜熱帯域の沿岸部に広がる海草藻場は、しばしば「海の熱帯雨林」や「海洋の肺」と称されるが、その真の健康状態を維持しているのは、そこに従事する唯一の大型草食哺乳類、ジュゴン(Dugong dugon)である。ジュゴンは単なる消費者ではなく、藻場の種組成、栄養構造、さらには堆積物の化学性質までをも改変する「生態系エンジニア」としての役割を担っている。近年の海洋生態学的な知見は、ジュゴンを「絶滅の危機に瀕した愛護対象」という狭い視点から解き放ち、沿岸生態系の「庭師」あるいは「管理者」を失うことが、海洋景観そのものの機能的崩壊を招くという警告を発している。
本報告書では、ジュゴンが海草藻場にもたらす「耕作的採食(cultivation grazing)」のメカニズム、その生命史が抱える絶滅への脆弱性、そしてグローバルな生息状況と保全の最前線について、最新の学術論文、政府統計、および国際機関の評価に基づき詳述する。

ジュゴンによる海草藻場の「耕作的採食」メカニズムとその生態学的意義


ジュゴンは、海洋哺乳類の中で唯一の完全な草食動物であり、その生活環の全てを海草藻場に依存している。しかし、彼らの採食行動は、単に植物を消費するだけの受動的なものではない。ジェームズクック大学(JCU)を中心とした長年の研究により、ジュゴンは自らの食料供給源である藻場の品質を積極的に管理・向上させていることが明らかになっている。

物理的撹乱と「耕運」の効果


ジュゴンの摂食様式には、大きく分けて「クロッピング(葉の摘み取り)」と「エクスキャベイティング(掘り返し)」の二種類が存在する。特に、海底の堆積物を掘り起こして海草の地下茎(リゾーム)や根を摂取する行動は、海底に「給餌トレイル(feeding trails)」と呼ばれる幅 程度の溝を形成する。この行動が藻場に与える物理的影響は極めて大きく、単なる摂食を超えた「耕作(cultivation)」と呼ぶにふさわしい。




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この大規模な物理的撹乱は、藻場の「若返り」を促進する。ジュゴンが集中的に採食を行った場所では、競争力は強いが栄養価の低い長寿命種(例:Zostera capricorni)が排除され、代わって成長が早く栄養価の高い短寿命の先駆種(例:Halophila ovalis)が優先的に定着する空間が生まれる。ジュゴンはこの先駆種を好んで摂取するため、定期的な採食によって藻場を意図的に「生産性の高い初期遷移段階」に維持していると考えられる。

生化学的フィードバックと栄養改善


ジュゴンによる「耕作」の効果は、単なる種組成の変化に留まらず、海草の組織そのものの化学的品質にまで及ぶ。シミュレーション実験によれば、ジュゴンの採食を受けた藻場から再生した海草は、未採食のエリアと比較して著しい栄養価の向上が認められる。




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このように、ジュゴンは藻場の「庭師」として、堆積物を耕し、酸素を供給し、栄養価の高い植物を選択的に育成するという高度な環境管理を行っている。ジュゴンが不在となった海域では、藻場は次第に老齢化し、繊維質が多く窒素の少ない、生物学的に「貧しい」草原へと変化してしまう。

ジュゴンの生命史と絶滅への脆弱性:長寿・低繁殖率のジレンマ


ジュゴンが「絶滅に脆弱である」とされる理由は、彼らの極めて遅い生命史(ライフヒストリー)にある。オーストラリア政府(DCCEEW)やIUCNの資料によれば、ジュゴンの個体群動態は環境変動に対して極めて敏感であり、一度減少した個体群の回復には膨大な時間を要する。

繁殖特性と個体群成長率の限界


ジュゴンは最大 年という長い寿命を持つ一方で、その繁殖能力は著しく低い。

性成熟の遅さ: 初産年齢は 歳から 歳の間で変動し、個体群の栄養状態に強く依存する。
長い妊娠期間と育児: 妊娠期間は約 ヶ月に及び、一度に産むのは通常 頭のみである。さらに、授乳と育児には約 年から 年を要し、次の出産までには 年から 年のサイクルが必要となる。
個体群成長率: 全ての条件が最適であっても、ジュゴンの個体群成長率は年率 を超えることは稀である。

この「低出生・高投資」型の生存戦略は、成体の生存率が極めて高いことを前提としている。そのため、漁業による混獲や船舶衝突などによって成体(特に繁殖可能なメス)がわずか数パーセント失われるだけでも、個体群は不可逆的な減少スパイラルに陥る危険がある。

食料資源への過度な依存


ジュゴンの繁殖成功率は、海草の利用可能性と直接的にリンクしている。サイクロンや洪水、人為的な水質汚濁によって海草藻場が消失すると、ジュゴンは繁殖を停止し、場合によっては餓死や大規模な移動を余儀なくされる。2022年にオーストラリアのハーベイ湾で発生した洪水後の調査では、海草の激減に伴いジュゴンの死亡数が急増し、生存個体も極度の痩身状態にあることが確認された。

世界の生息状況と2024-2025年の最新トレンド


2025年に発表された「ジュゴンの状態と保全ニーズに関する世界評価報告書」によれば、ジュゴンの世界的な分布状況は「避難所としてのオーストラリア」と「壊滅的な減少に直面するアジア・アフリカ」という二極化が鮮明になっている。

オーストラリア:グレートバリアリーフの危機と北部の回復力


オーストラリアは世界最大のジュゴン個体群(約 頭)を抱えるが、地域ごとのトレンドは一様ではない。

北部・西部海域: シャーク湾や北部沿岸域は、低い人口密度と広大な海草藻場に支えられ、良好な状態を維持している。これらは世界的な「レフュジア(避難所)」として位置づけられている。
グレートバリアリーフ(GBR)南部: ジェームズクック大学(JCU) TropWATER の最新の航空調査(2022年実施、2023年報告)によると、ミッションビーチからバンダバーグにかけての個体群は2005年以降、年率 のペースで減少を続けている。
ハーベイ湾: 最も深刻なのはハーベイ湾で、2005年から2022年の間に年率 という衝撃的な減少率を記録した。これは相次ぐ気候イベントによる海草の消失が主因である。

タイ:深刻化する「餓死危機」(2024年ー2025年)


タイのアンダマン海沿岸では、2024年から2025年にかけてジュゴンの死亡数が過去最高水準に達しており、社会問題化している。




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タイ海洋・沿岸資源局(DMCR)の報告によれば、2024年の死体の約 が餓死によるものであった。これは、トラン県などの主要生息地で海草の被度が最大 消失したことによる。生き残ったジュゴンは、餌を求めてプーケットなどの不慣れな海域へ移動しており、そこで船舶との衝突事故に遭うという負の連鎖が発生している。

中国と日本(沖縄):北限個体群の「機能的絶滅」と微かな希望


東アジアにおけるジュゴンの状況は極めて深刻である。

中国: 2022年に「中国におけるジュゴンの機能的絶滅」を宣言する論文が発表された。1980年代に確認されていた個体数は激減し、2000年以降の確実な記録は極めて少ない。ただし、2025年に入り海南省周辺での断続的な目撃情報があり、絶滅の認定には至っていないものの、個体群の維持は絶望的視されている。
沖縄(日本): 日本唯一の生息地である沖縄周辺では、絶滅危惧IA類に指定されている。辺野古の新基地建設に伴う生息地の分断が懸念される一方で、2024年度の沖縄県による調査では、宮古諸島や八重山諸島を含む広い範囲で 件の目撃・痕跡情報(喰み跡など)が収集された。特に、西表島で採取された糞からジュゴンのDNAが検出されたことは、個体が依然として移動・生息している重要な証拠となった。

ランドスケープの変化:庭師を失った海の帰結


ジュゴンが消えることは、単に「かわいい動物が見られなくなる」ことではない。それは、数百万年にわたり維持されてきた沿岸域のランドスケープが根本から変容することを意味する。

ブルーカーボンと気候変動への影響


海草藻場は、熱帯雨林の最大 倍という驚異的な炭素吸収・貯蔵能力を持つ。ジュゴンによる定期的な撹乱は、藻場の生産性を高めるだけでなく、堆積物への炭素埋没を促進する。

炭素貯蔵効率の低下: ジュゴンが不在の藻場では、植物が老化し、分解プロセスが停滞する。これにより、炭素の取り込み速度が低下し、隔離能力が減退する。
生息地の脆弱化: ジュゴンによる「耕作」がない藻場は、種多様性が低く、単一の種が支配的になりやすい。このような藻場は、海洋熱波や病害に対して極めて脆弱であり、一斉枯死が起こった場合には、蓄積されていた炭素が大量に放出されるリスク(炭素爆弾)を孕んでいる。

漁業資源への打撃(トロフィック・カスケード)


ジュゴンの消失は、ボトムアップおよびトップダウンの両面から漁業資源に悪影響を及ぼす。

保育場の喪失: 多くの商業魚種や甲殻類は、幼生期を海草藻場で過ごす。ジュゴンが維持する「栄養価が高く、パッチ状に開けた空間」は、多様な生物の幼生にとって最適な生息環境を提供している。
捕食者ー被食者関係の崩壊: ジュゴンは大型のサメ(イタチザメなど)の主要な獲物であり、サメの行動を制御する要因でもある。ジュゴンが減少すると、サメは他の獲物(ウミガメや魚類)へ圧力を強めるか、あるいはその海域から離脱し、生態系全体のピラミッドが崩壊する「トロフィック・カスケード」を引き起こす。

脅威の多層構造:なぜジュゴンは守りきれないのか


ジュゴンを脅かす要因は多岐にわたり、それらが複合的に作用することで、保全を極めて困難にしている。




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特に「混獲」は、多くの地域で最大の直接的脅威となっている。ジュゴンは肺呼吸を行う哺乳類であるため、刺し網などに絡まり水面に浮上できなくなると、短時間で溺死する。オーストラリアのように政府が漁業者から網を買い取るなどの強力な経済的措置を講じられる国は稀であり、途上国では生活の糧である漁業とジュゴン保護の対立が解消されていない。

保全に向けた国際的連携と新たな戦略


ジュゴンと海草藻場の危機に対し、国際社会はこれまでの「個別の種保護」から、包括的な「生息域管理と資金動員」へと舵を切っている。

2030年海草ブレイクスルー(2030 Seagrass Breakthrough)


CMS(移動性野生動物の種の保存に関する条約)Dugong MoU 事務局と国連気候変動ハイレベル・チャンピオンが共同で提唱しているこのプロジェクトは、2030年までに世界の海草藻場を守るための野心的な目標を掲げている。

資金目標: 少なくとも 億ドルの資金を動員し、海草の消失を阻止する。
保護面積の拡大: 効果的に管理された海草保護区の面積を現在の 倍にする。
復元の加速: 海草の再植栽と自然再生を支援し、失われた「海の庭」を取り戻す。

科学技術による革新的なモニタリング


ジュゴンの「隠密性」を克服するため、最新のテクノロジーが現場に導入されている。

ドローンとAI: 航空機による伝統的な調査に加え、ドローンを用いた高解像度撮影とAIによる画像解析により、個体の体調(痩せ具合)や子連れの割合を正確に把握する。
環境DNA(e-DNA)分析: 海水や堆積物、さらには糞からDNAを抽出することで、目視困難な海域での生息確認や、個体群の遺伝的健全性を評価する。
市民科学と伝統的知識の融合: フィッシャーマン・サーベイ(漁業者調査)や先住民によるパトロールを通じて、広大な沿岸域のリアルタイムな情報を収集する枠組みが、オーストラリアや東南アジアで成果を上げている。

結論:庭師を失うことは、未来の海を失うことである


ジュゴンという存在は、海洋生態系において「炭鉱のカナリア」であり、同時に「庭師」でもある。彼らが海から消えることは、単に愛らしい海洋生物が一種失われるという感傷的な出来事ではない。それは、沿岸域の栄養循環が滞り、海草藻場が老化し、炭素貯蔵能力が減退し、そして多くの漁業資源を育む「揺りかご」が壊れることを意味している。
オーストラリア政府が強調するように、ジュゴンの保護は「一主の保護」ではなく、「沿岸生態系の機能維持」そのものである。ジュゴンが維持する、あのパッチ状に光り輝く栄養豊かな海草藻場の景観を失うことは、人類にとっても多大な生態系サービスの損失を意味する。
今、求められているのは、ジュゴンが「海の芝生」を刈り続けられる環境を、地球規模の連携で取り戻すことである。タイで起きている飢餓危機や、沖縄で細々と続く痕跡は、私たちに残された時間が極めて短いことを示唆している。ジュゴンという庭師が再び安心して海底を耕せる海を再建することこそが、豊かな沿岸生態系を次世代に引き継ぐための、最も確実な道であるといえよう。

引用文献

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