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【青春短編小説】『4レーンと5レーンのあいだに、』言葉にならない熱量を、すべて水の中へ。

 鼻の奥がずっとツンとする。
 塩素の匂いには慣れているのに……
 なんだか今日は違った。

 インターハイ予選、
 100メートル自由形の決勝。

 電光掲示板の「4レーン」に俺の名前。
 で、すぐ右の「5レーン」が拓海。

「おい蓮。固まってんじゃねえよ、置いてくぞ」

 後ろからあいつの声。
 振り返ると、
 もうキャップ被ってゴーグルも首にかけてる。

 ムカつくくらい無駄のない逆三角形。
 小学生の時からずっと、
 俺たちはこうやって並んできた。

 あいつがタイム縮めたら俺が抜き返す、
 俺が調子いい時は
 あいつがさらにその上をいく。

「拓海、お前こそ俺の波で溺れんなよ」
「ハッ、言うね。お前のバタ足、無駄にデカくて邪魔なんだわ」

 拓海がニヤッと笑う。
 いつもの、クソ生意気で、
 でも世界で一番見慣れた顔。

 あいつには絶対に負けたくない。
 あいつの視線の先には、
 いつも俺だけがいなきゃ嫌だ。

 この、胸が焼けそうなくらいキツい独占欲を、     
俺はただの「ライバル心」だと思ってた。

 拓海がスタート台に立つ前、
 絶対に俺のレーンをじっと見る理由も、
 それが俺と同じ、
 言葉にできない熱量の裏返しだってことにも……

 ただ、今日の拓海はなんか変だった。
 いつもならもっとギラギラしてんのに、
 今日のあいつは、
 どこか遠くを見てるみたいに静かすぎた。

◇ ◇ ◇
 昨日の夜、誰もいない学校のプール。
 放課後の居残り練習が許されてる最後の時間、    俺と拓海は二人だけで、ただ水に浮かんでた。

 夕方の赤い光が水面に反射してて、
 パシャって拓海が小さく水を蹴った。

「……蓮。お前、大学どこ行くか決めた?」

水から顔だけ出して、拓海が急に聞いてきた。

「は? なんだよ急に。地元の体育大だよ。特待狙ってっから」
「そっか。やっぱりな」

 それだけ。
 拓海はまた上を向いて水に身体を預けた。
 濡れた前髪が額に張り付いてる。

 実は、俺は知ってた。
 先週、職員室の近くを通った時、
 水泳部の顧問と拓海の親が深刻な顔で話してた。

 拓海の、心臓の軽い病気。
 普通に生活する分には何の問題もないらしい。   
 けど、コンマ数秒の世界で限界まで追い込むガチの競泳は、もうドクターストップ。

 明日の決勝が、拓海にとって人生最後のレース。あいつはそれを誰にも言ってない。もちろん俺にも。

 プライドの塊みたいなやつだから、
 だから俺は、何も知らないフリをすると決めた。

 だけど、胸の奥が冷たい水底に沈められたみたいに苦しくて、上手く息ができない。

 明日が終わったら、俺は誰と競えばいいんだよ。

 誰を追いかければいい。
 最高のライバルを失うのが、

 こんなに気が狂いそうなくらい絶望的なことだなんて思わなかった。

 隣で拓海が、泣きそうなのを堪えるみたいに、   きつく目を閉じてるのも見ないフリをした。

「拓海」
「ん?」
「明日、手加減したらマジでぶっ飛ばすから」「……バーカ。お前に手加減する余裕なんて、1ミリもねえよ」

 拓海が水の中から腕を伸ばして、
 俺の頭をガシガシって濡れた手で触ってきた。

 その瞬間、
 手のひらから伝わってきたあいつの体温に、
 心臓が跳ねた。

 ドクンって嫌な音が耳の奥で鳴る。
 切なくて、どうしようもない。

 今すぐこいつの手を掴んで、「辞めるなよ」ってダサく泣きつきたかった。

 なんだよ、この気持ち。
 ただの友達、ただのライバル。

 拓海も、手を離したあとしばらく、俺を見てた。その瞳の奥にある深い色が何なのか。

 ◇ ◇ ◇

「男子100メートル自由形、決勝」

 アナウンスが響いて、会場がどっと沸く。
 電光掲示板の文字が点滅して、俺たちはゆっくりスタート台へ向かった。

 4レーンと、5レーン。
 真ん中を区切るコースロープ。

 これがあるせいで、
 隣のレーンの体温は絶対に伝わらない。
 水に入ったら、
 完全に孤独な、自分だけの戦い。

 スタート台に足をかける。
 指先に力を込めて、身体を前に傾けた。

 ふと、右を見る。
 5レーンの拓海が、いつものように俺を見た。   

 揺れる視界の向こう、
 拓海の目が、バチッと俺の目と絡み合う。

 あいつの瞳の奥にある、
 すべてを燃やし尽くすような覚悟。
 それを見た瞬間、
 胸に痛いくらいの熱が走った。

 あいつの秘密を知りながら、
 ここまで何も言わずにきたのは、

 もう一度だけ、
 拓海と全力で交わりたかったからだ。

 拓海の視界の真ん中を、
 誰にも譲りたくなかった。

 ホイッスルが鳴って、一瞬、静寂。
 俺たちの身体は同時に水の中へと飛び出した。

 ザバァッ! って激しい水音。

 水に入った瞬間、世界から音が消える。
 あるのは、自分の心臓の音と、
 激しい水の抵抗だけ。

 一掻き、二掻き。水面へと突き上がる。
 息を吸う一瞬、右を見る。

 水飛沫の向こう、コースロープの向こう側で、
 拓海の腕が猛烈なスピードで
 水を掻いてるのが見えた。

 やばいくらいのピッチ。
 あいつ、完全に身体の限界を無視してる。
 心臓がどうなってもいいってくらいの腕の振り。

 バカ、拓海……! 死ぬ気かぁ!

 胸が、張り裂けそうに熱い。

 あいつの覚悟が、
 冷たい水を通して俺の肌にビンビンに伝わってくる。

 あいつの「人生最後」の泳ぎを、
 俺は一番近くで見届けてる。

 負けない。絶対に、俺が勝つ。

 それが、あいつの全てを知っていて、
 なお知らないフリをして、
 同じ舞台に 立ってる俺の、最大級の形。

 50メートルのターン。ほぼ同時。
 壁を蹴る足に、全部の力を込める。

 後半、残り25メートル。

 酸素が足りなくて、
 筋肉が焼き付くように痛い。
 頭がぼーっとする。

 だけど、右を見れば、
 死に物狂いで食らいついてくる拓海がいる。

 あいつがいるから、
 俺の限界がさらに引き上がる。

 いけ、いけ、いけ……!

 ラスト5メートル。
 二人の身体が、ゴールタッチへと滑り込む。

 バシィ!!!

 同時にタッチした感覚。
 水面から顔を跳ね上げて、
 激しく息を吐きながら、
 俺たちはすぐに電光掲示板を見上げた。

『1位:4レーン(蓮) 49秒12』

『2位:5レーン(拓海) 49秒15』

その差、わずか0.03秒。

「……しゃああっ!!」

 叫んで、コースロープに掴まりながら、
 隣のレーンを見た。

 拓海はコースロープに背中を預けて、
 天井を見上げたまま、
 肩を激しく上下させてた。

 その顔には、悔しさよりも、
 すべてを出し切ったような、
 信じられないくらい綺麗な笑みが浮かんでた。

 拓海が、ゆっくりこっちを振り向く。
 水滴の滴る手を、コースロープ越しに、
 俺に向かってあげる。

「……負けたわ。クソ、マジで速いなお前」
「当たり前だろ。誰に勝ってきたと思ってんだよ」

 コースロープが邪魔で、俺たちは近づけない。
 離れていても、
 心臓の鼓動が、熱い体温が、
 ダイレクトに伝わってきた。

 その瞬間、
 目から、ボロボロと涙が溢れて水面に落ちた。

 これが……「ライバルを失う悲しみ」
 なんかじゃないことくらい、
 もう本当は、薄々気づいてる。

 俺は、この感情の正体を、
 言葉にすることはきっと一生ない。
 離れ離れになって、
 別の道を歩むことになっても

 俺たちは
 「親友」で「最高のライバル」
 っていう関係のままだ。

 それでも、
 4レーンと5レーンのあいだで交わした
 あの熱量だけは。

 水の中に溶けていった、
 無自覚な恋心だけは、誰にも奪えない。
 二人だけの永遠になった。

 了

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